沈黙は共犯という思想について

悪事を行なっている者に対してそれに声を上げずに糾弾したり意見せず沈黙を貫くことはその悪事に加担していることと同義であると言う批判の言葉

 

それが「沈黙は共犯」

 

俺はこれを小学生の頃から創価学会に染まりあげた母親から言われてきたし自分の根が馬鹿正直だからこそそれを真に受けて少しでもおかしいと思ったことに対して徹底的に黙せずに抗戦してきたし今もなおそれをしている

勿論味方になってくれる者など1人もいないし何なら叩けば埃の出ない人間など基本的にこの世には存在しないから誰1人として俺の批判からは逃れられない

だからこそ誰とも仲良くはならないしなれない

まぁもしかしたら俺はこの言葉の意味を履き違えてるのかもしれないし判断基準が厳し過ぎるのかもしれない

それも踏まえた上で再度この沈黙は共犯という言葉について考察すると

 

思うにただのソクラテスの再生産なのかな

正論や批判を語ってくる人間なんて鬱陶しいだけで歴史を辿れば皆殺されるだけなんだよね

つまり生存戦略としては全くの逆をいってるだけでしかない

要するに孫子の兵法の真逆

何にでも突っかかって無駄死にしていくようなもの

同調圧力に簡単に捻り潰されるだけの思想

それが客観的な「沈黙は共犯」という言葉の評価かなと

 

勿論沈黙は共犯を世の中の全員が実践し続ければどんどん合理化されていくしよりよい世の中へと進んでいくのだと思う

だけどそれに耐えられるのかな?大半の人間が

俺は無理だと思うね

褒めることだけ言ってなんて宣う軟弱者の集まりが人類の現状でしかなく痛烈な批判に精神が耐えられるように出来ているとは到底に思えない

良いものはいい、悪いものは悪いということの難しさ

だから結局ただの理想論でしかなく実践したところで自分自身にうま味やメリットなんて全くないただの修行にしかならない

要は縛りプレイに近しい何かで

球穢れなく道険しと同じようなものだ

俺はこの思想で世の中が良くなるとは微塵も思わない

動物園の猿に道徳や規律を説くのと同じくらいに人類にとっては無駄

そんなことをわざわざ得もないのにやりたがるのは酔狂でしかない

ここまで理解していながら私がこれを実践し続けているのには理由が1つだけある

それは私が人間嫌いであること

人間が嫌いだからこそ人間を正論として批判する、そして程度の低い人間はそれに耐えられず俺を嫌ってくれる

ようはマッチポンプなのだ

どうせお前らは俺の正当な批判に耐えられず俺を嫌いになるんだろ?と分かった上での批判なのだ

こちらに理があります、あなたはクソだと言われて嫌いにならない人間は少ない

勿論言い方や伝え方や態度やスタンスの問題は大いにあると思うがそもそものモチベーションが違う

俺は人間嫌いだから余計に嫌われたい

そして俺の1番嫌いな人間とは正論を受け入れられないゴミ人間なのだ

ゴミ人間に正論を吐いて批判してゴミ人間から嫌われるという好循環を完成させる

得るものはない、だが失うものも何一つない

だから自分は黙せず批判を吐き続けるのだと思う

 

それがいいか悪いかは知らん

だが俺はずっとそれをやってきたし結果を出してきた

俺の言ってきたことは全部正しかった

それが全てでそれが全てだ

それ以上も以下もない