塞翁が馬と酸っぱい葡萄の紙一重の差と人生における自身の正解と

塞翁が馬とは

何事もそれが本当に幸か不幸が即座に判別することは難しい

酸っぱい葡萄とは自分が手に入れられなかった物事に対してあれはきっとくだらないものだ、手に入れなくて良かったとほざく様

 

よく後者はルサンチマンなどと揶揄されるし哲学者ニーチェにおいてはルサンチマンはクソ、超人を目指せと散々に言われるのだが

ふと思うのは果たしてそれは本当に正しいのか?と言うことだ

 

塞翁が馬とは要塞に住む翁、つまり老人がある日自慢の良い馬に逃げられて周囲から「不運だったね」と言われる中で老人は「いや、これは吉の予兆かもしれない」と言い後日その逃げた馬が多くの馬を引き連れて城に戻りこれに周囲は「これは良いことがあったね」と言うと老人は「いや、これは悪い予兆かもしれない」と言いその後馬が連れてきた馬に老人の息子が乗っていると乗馬中に落馬し障害の残る怪我を負ってしまう

これに周りは「爺さんあんたの言う通り悪いことが起きたね…」と言うと老人は「いや、これは良い予兆かもしれない」と言う

その後国が戦争を始め国中の若い男が戦争に駆り出される中老人の息子は怪我を理由に徴兵を免れた

そして多くの若い男が命を落とした中で老人の息子な生きながらえたと言う話である

 

これはつまりどういうことだろうか

起きた結果に対して真っ直ぐには受け止めず吉兆だ悪い予兆だと語るのはルサンチマン的ではないだろうか

その後その通りの結果になるので悲劇的なことを回避できてはいるがニーチェの哲学とは真逆の主張である

ではニーチェと塞翁が馬は本当に真逆なのか?と言うとそうとも言い切れない

その要因として最大の1つは

老人には先を見通す力があったことである

事実全て老人の予兆通りに物語は進み終えている

つまりニーチェ力への意志や超人論とはここが引っ掛かるのである

何がなんでも上を目指し続け超人となれと言う主張は脆さしかない

果たしてそれが本当に良いことなのかは結果を見るまで誰にも分かりはしないからだ

何が正解で何が答えなのかも見えない状態で何をすべきかなんて分かりようがないとしか言えない

例えば「学校に行き努力すること」が正しいと言い切れるだろうか?

通学中に事故や事件に巻き込まれて命を落とせばどうなる?

それは本当に正しいことだったと言えるか?

つまりそういうことである

何が正しく何が絶対かなんてのは人間にははかり知ることなど不可能なのだ

つまりニーチェの超人論や力への意志を肯定するのであればそれは塞翁となる他にないのだ

それはつまり何が正解かを見通せる力を得ること以外にない

結果を知る能力や予知能力を得ない限りそれは全くの無駄である

つまりそんなものは誰にも持つことなどできない

誰も自分の人生が正しいだとか先を知ることはできない

つまり誰も超人にはなれない

つまり誰も正解には行き着けない

 

或いは運だけで最善の生き方をできる者

つまり人生とはどこまでも運ゲーであると言える

よく強い種が生き残ったのではなく適応できた種が生き延びたと言うが私は違うと思う

正しくは運のいい種が生き延びただと私は思う

 

人生には運しかいらない

運だけが正義であり正解であり

それ以外のものは不純物なだけである

或いは先を完全に見通す力

これらを手にする以外に正解などない