韓非の人間不信とニーチェの超人と釈迦の解脱

つまりこれらをミキシングするとどういったことになるか

 

1人暮らしで狭い部屋に住みビーガン生活を送り「何か」をする

 

「何か」とは一体何か

それが分からない

 

 

正直金は必要ないんだと思う

いや必要なんだけど必要な分以外は必要ないということだ

あり過ぎても何の意味もない

金とは金以上でも金以下でもない、ただの金でしかない

 

そして韓非曰く「他人は信じる意味がなく馬鹿は正論を聞かない」のだから他人とは関わる価値がないケースがほとんどということ

人類史上最大の合理的人間がそう言ってるのだからそれはもうほぼ確定と言って問題無いだろう

 

ニーチェは娯楽について説き

釈迦は生活と思考について説き

韓非は人間関係について説いた

と僕は個人的に思っている

 

超人とは遊びだ

遊ぶ人という意味だと僕は思っている

何の障害もなくやりたいことをやりたいままに体現でき表現できている人間を指すのだと僕は思う

勿論その規模の大小は当然ある

大きいことを為す者もいれば小さいことしかできない者もいる

そこで物事の大きさで悩む人間も当然いるだろう

しかし老子は「小さくていい、無理するな、無為自然」と返す

 

事を大きくするには人手が必要になる場合がほとんどだ

しかし韓非は「アホはどうしようもない、アホじゃ無くても人なんて信用するな」と言う

老荘も「国は小さい方がいい、民は少ない方がいい」と説く

ならもうこれは究極人は1人でいいとなる

 

じゃあ1人で何をするかとなるとニーチェの超人になる

やりたいことをやりたいまま

じゃあ何をやるのか

そこに釈迦のビーガン思想を当てはめる、自分のできる範囲で

するとどうなるのか

 

例えば1人で何かしろと言われたら僕は何をするのか

 

結局はゲームなんだと思う

じゃあそのゲームで何をするのか

僕はゲームで何を体現するのか

答えはもう分かってんだと思う

多分観戦だなって

多分それなんだなって分かってんだけど

なんでやらなかったんだろうなと不思議に思う

なんかめんどくさいんだろうな

それが良くない、本当に良くない

この考えをなるべく早くアップデートして変えていきたいと思う

ではまた