気色の悪い優しさ

私が昔実家にいた頃

犬と室内で遊んだりする

その際に犬は一生懸命にハシャぐのだが

そして犬に限らず世のペットなんてのはハシャぐのだ

その一瞬や一時をハシャいで奴らは生きている

ハシャぐ為に生きていると言って過言ではない

当人達がハシャぎたいと感じた時にハシャぎたいだけハシャぐ

そして笑う、楽しむ

俺はそれが生きることの本質なのだと思う

一生懸命に楽しんで過ごす

 

俺は、その当時からこの犬は俺より長くは生きられないと思いながら構っていた

だから遊べる時は遊ばなきゃいけないと

沢山に遊んでいた気がする

おそらく楽しかったと思う、お互いに

別に生物はいつか死ぬからだとか自分より早く死ぬからだとかだからそれまでに〇〇しなきゃいけないとか義務とか使命感とかそういう話じゃない

例えそういう話であったとしてもそういう話ではない

問題なのは自分が何をしてあげられるか

俺はこの30数年ずっとそのことばかりを考えてきたと思う

自分が相手に何をしてあげられるか

別に俺は優しい人間ではない

むしろドライ丸出しの冷血漢だし人から好かれたりとかはしない

ただ思うのはこの先どうなろうと生物は死ぬ

ならその時までを悔いなく生きたいという話

まぁそんなのは皆当たり前に思ってる

それが出来たらそれが一番いいに決まっている

だがそれを全う出来ない者が大勢といる

俺は徹底的に悔いある生き方をしたくないんだよね

後悔がとにかく許せない

だから俺は常に

したいと言ったら絶対するししたくないと言ったら絶対にしない

勿論考え方は常々コロコロと変わることもあるけど

基本は考えを曲げない

ほんの少しの軌道修正はするけど大きく考えを変えたりはしない

自分がこれだと思ったら絶対に貫きやり通す

どれだけ代償があっても関係ない

まぁ自分に甘いので自分が辛くなったら簡単にやめるけどそれでもずっと頭の中でその目標を反芻し続けてる

しつこいんだな

どれだけダメでも結果でなくても見込みなくても折れない

まぁ馬鹿なんだと思う

だから仕事が続いてるのだと思う

だからまぁ思う

楽しく生きたいと

ハシャいで生きたいね

笑って生きたい

人生はそういうシンプルなものだと思う

人生に勝ちとか負けとか無いけど

一瞬一時でも楽しくハシャいだならまだ救いはあるかなと思う

我々はそういう動物で

我々はそういう動物なんだと思う

色々と悟ると

絶望感とかは綺麗に消えて受容感だけが残る

全てを受容するとかじゃなく

どうしようもできない絶対的な絶望に対してのみを許せるようになる

生物は必ず死ぬというある種の絶望を許すことができる

要は何の為に生まれたのかの問いに対して

ハシャぐ為に生まれたんだよという解を与えて上げたら

ならもう死んだとしても別にいいかとなる

そんな簡単な話

私も自由な猿だのナマケモノだウサギだ言うてますが

そもそもそんなのは本質ではなく

ただハシャぎたかった

それだけかもしれません

散々ハシャいだ後は

散々ハシャいだ後で

散々々々楽しかったと思いながら

満たされたらいいと思います

楽しかったが

楽しかったに

楽しかったと

楽しかったを

楽しかったで終われたらこれ幸い

私はそれでいいと思う