鬱病とは違う精神疾患

自分が10代の頃かなり塞ぎこんでいて何も出来ない時期があった

最近どうもあれは世間一般で言う鬱とは違ったもののように思うのだ

例えるならあれは一種の怒りやヒステリーに近い何かであったように思える

それらとパニック障害的なものとかが組み合わさった病気

例えばずっと何かに怒っていた気がする

今よりもずっとずっと遥かに私は怒っていた

何もかもにイラつき何もかもを恨み

何も楽しめなかった

そしてストレスや緊張を感じとると過呼吸になり意識を正常に保てない

後は自信と気力が全くなくて社会に出る勇気が持てなかった

だから思う、あれは鬱とかじゃなかった

自分に実力があれば社会に出られたと思うからだ

要は自分に自信がないから余計に引き篭もっていたんだな

毎日家でゲームをしていた

そして格ゲーに出会い毎日練習して最後はトッププロに勝った

そこで初めて自分に自信が持てたと思う

社会に出てる奴らでも勝てないプロに勝てたじゃんと

ならもう俺が社会に出てもやっていけるでしょと

そして地元を出て東京に来た

俺ならやれると思って

最初は苦労した

電話対応もろくに出来ず噛みまくって

1日でその様子を見ていた職場の30代半ばの仕事のできる人から素っ気なくされた

アホみたいに働きまくった

1日17時間を超えるオーバーワークをやっていた

月に一度は体調を崩した

誰からも評価されず常に蔑まれた

半年もしない内に職場で人間関係を悪くさせ俺対7人くらいで対立した

それでも無視して俺は働きまくった

一年も過ぎる頃には職場の人間の3割くらいとは挨拶もしなくなった

ある程度仕事ができる年上の人達が辞める間際俺にかけた言葉は

「俺よりも上手くなったね、見れば分かるよ」

「あれだけやったらそりゃ上手くなるわな」

等と言って辞めていった

普通男は男を褒めたりしない

特に人生が上手くいってない男ほど悔しさがあるので受け入れない

だがすんなりと俺にその言葉をかけていなくなった

つまりそれは本当にそう思ったということだ

私はゲームに続き仕事もトップになったのだ

誰よりも仕事ができない男が誰よりも仕事が出来るようになった

まぁだからなんだ

 

自分を信じられるかどうかだと思う

つまり自分がかつて罹っていた病気とは鬱病ではなく自分不信

そりゃ自分を信じられない奴は何もできないのは当たり前の話

根拠を伴って自分が出来ると思えばなんだって出来ると俺は思う

友達や家族は助けてくれない

自分を助けられるのは結局原因が自分にある自分だけなのだ

人生とは孤独な戦いだ

だから孤高の日々なのだ

いくら仲間と群れようとも無能な自分を隠せはしない

2011年のJRAのCM

ナリタブライアン菊花賞

ナリタブライアン、七馬身差の衝撃

群れに、答えなどない

 

孤独だった俺はずっとこの言葉を反芻していた

自分を救えるのは自分だけなのだ

孤独だったからここまでこれた

孤高だったから

自由になれる

 

孤高の日々とは自由の日

自由とは強さだ

強くなきゃ自由になんてなれない

 

まだまだ俺は強くなれる

どこまでも