友達が欲しいという感覚が分からない

仲間は欲しいと思うが慣れ合いはいらない

 

例えば自分が今ピンポイントにハマってるニッチなことがあってそれに関する本とかも無かったり場も無かった場合にのみ

「あぁ、これを語り合える奴がいればなぁ」とふと思いかつ「お、こいつ俺と感じたこと似てるな、あ、そういう部分もか、あ、大体俺と評価同じや」

くらいまでシンクロして初めて

「あぁ、こいつと語りあえてよかった、価値と意味があったなぁ」と感じるのである

 

つまり不可能だ

そんな都合のいい奴はこの世に存在することは決してない

鏡を見て延々呟いていた方がマシなのだ

まぁ将来AIなどがそれを補ってくれるかもしれないが

それは分からない、未知数なことだ

 

で、友達という話に戻る

でだ、この友達とやらは一体いつ何時に意味があるのか

小学生の頃はそりゃいっぱいいた、いたというか自分は貧しかったので遊ぶ為には自分以外の誰かが必要だったし向こうもそれに近い状態だったと思う

ゲームや漫画を持っていなかったりしたらそりゃ誰かと何かして遊ぶしかない

俺は所かまわず人の家へとあがりゲームを遊び続けた

ゲームだったらなんでもよかった

それくらい俺はゲーム狂いな子供だった

64のスマブラゴールデンアイパーフェクトダーク

あんなに高笑いが止まらなかった日々は無いだろう

でも俺は同時にそれをそんなに「いいもの」とは思っていない

確かに人生で最も笑っていたとは思う、思うが

別に笑っているから楽しい、良いとは思わない

例えばだが笑っていたいなら映画やドラマなどの映像作品、ゲームでも小説でもなんでもそうだがホラーやサスペンスを鑑賞する理由にならないのだ

あなたは今でもコロコロコミックを読まれるんですか?と

お下劣なギャグを見て乾いた笑いや無感情以外の何かがあなたには出てくるのですかと

そう、大人は笑わないのだ

別に笑うなとは言わない

ただ、笑うって俺はつまらないと思うのだ

ウェットに富んだシニカルさとか

そういうもののほうが心にズンッと残ってクセになったりしませんか

松本仁志が小峠を「チンチンかと思った」とイジるのがそんなにあなたらは面白いですか?

いや面白いんならいいですよ

ちょっと私にはついていけないというだけで

 

要は自分がハマっているのは皮肉と批判と否定である

これがもう蜜の味でやめられねえんだ

お笑いで言うならば過激なツッコミというか

全部がおかしいって言い切った時の僅かに出てくる薄い全能感

ソクラテスもこんな中毒だったのかもしれない

ただもう最近はそれにも飽きてきて

今度は自分がボケだす孤立と自滅と自傷である

これも過激なボケである

全部いりませーん!って言い切った時の薄い全能感

ミニマリストもこんな中毒なのかもしれない

ただこれももう飽きていて

今は無である

これはボケでありツッコミでもあって

何もしませーん!って言い切った時の全能感

釈迦もそんな中毒だったのかもしれない

ただこれももう飽きていて

最近は辛である

これはボケでありツッコミでもあり無でもあって

これ辛ァッ!ってリアクションと全然辛くない!ってツッコミと無言でむさぼるという無のライブ感と全能感

激辛通達もそんな中毒なのかもしれません

これにて話を終えたいと思います

ではまた