「脱成長」した未来をエンタメの目線から考察する

脱成長

 

要するにザックリ言うと、成長をやめて無理せず富を分配しながら社会を回すという考え方

これらの名目は幸福度の上昇だったり格差の是正だったり環境破壊の減少だったりと様々なのだが

 

個人的な見解を述べさせてもらうと6割強の人間にとってはなんら不都合のないことで

何の役にも立たない無能にとってはこの上ない環境だと言える

優秀な人間になればなるほど損をし無能な人間であればあるほど社会から公的な恩恵を得られる

正直それらの是非については個人的にあまり興味が無く、その理由は自分は特段有能な訳でも生活に困窮しどうにもならないような不幸も感じていないからだ

自分にとって脱成長とは影響は無いとは言わないがさして関係はないという見立てをしている

では自分にとって脱成長とは何かと言うと

企業が製品に対してコストをかけなくなる未来が見えるのだ

例えばゲームなどはグラフィックやシステムやUIに金をかけなくなり制作スタッフをギリギリにしてコストダウンさせ質量共に悪化し会社の利益も下がるので更なる品質の悪化することが予測に難くない

そしてその傾向は現代で既にそうなっている

動画サイトなどでゲーム動画を上げても古いゲームや新しくても見た目やシステムが古いものは基本見向きもされずニーズがまるでない

その理由は詳しくは分からないがハッキリと分かるのは「古臭くて不便なもの」は求められていないということだけはハッキリと分かっている

 

そして脱成長した社会とは様々な分野で「古臭くて不便なもの」で溢れかえってしまうのでますます物は売れず社会が困窮していくように思う

かと言って今のままの社会が最善でどんどん新しいものを市場に投入し売上を出していく社会ものまた次第に頭打ちとなっていく

理由はこの国の市場規模は縮小をしていくことや企業の売上低下やコストの高騰化でどの道ジリ貧であることは間違いが無いからだ

つまり制度の現行維持や抜本的な脱成長という改革をしても根本的な部分は何も変わらないというのが私の見立てである

 

つまり何をやっても無駄、無意味

ではどうすればいいのか

なにをやれば社会は良くなっていくのか

その答えは脱競争であり脱群集である

 

一部の人間達が売れるものを作ることを放棄し自分の作りたいものややりたいことを重視して作られた作品を世に出す

つまりその社会とはかなり孤高をベースに構築された社会になるということだ

他者がどうとかではなく自分がどう思うか

徹底的に自分自身に問いかけ続ける孤高社会にこそ脱成長成功のカギがある

人は人と群れるからこそ競争意識が芽生えあいつより上、あいつより良い暮らしがしたい、あいつよりもチヤホヤされたいなど言った不純な動機が芽生える

ならば最初から他人の介在する余地を失くして自分とだけ対話をするような生活を送ればそれ以上も以下も発生しなくなり刺激は薄くともゼロベースの生活を送れるようになり脱成長、脱競争、脱群集スタイルの社会へと移行ができるのである

 

ではそんな社会を実際に実現可能か、全員が幸せを感じるのかと問われれば私はそれを自らが真っ向から否定する

人間には元々備わっている欲というものが存在する

金銭欲や出世欲など他者と関わることで初めて生じる欲が備わっているのだ

孤高な社会とはそれらの本能的な欲をバッサリと切り捨てるようなものでかなり無理のある話なのだ

人間をやめて孤独なロボットになりましょうみたいな提言をほとんどは飲めるわけがない

だがそれを拒んで今の社会を続けてもどの道同じことなのだ

金や競争の為に時間と労力を注いでも格差はどんどん開いていくし自然環境も悪化していく

手首が入るほどの穴の開いた四角い箱の中に手を入れ箱の中にある木の実を掌一杯に掴んでも永遠に箱から手が抜け出せなくなる猿のようにできないものを自らの欲の為に振り回され足掻き続けるようなものだ

我々に必要なのは箱の中の木の実は我々には手に入れることが無理だと諦め別の場所にある木の実を探すことが重要なのだ

つまり脱猿だ

我々はもう猿をやめなきゃならない

全員がそうするのは無理でもいい加減この無間ループから抜け出さなければならないと思う

なぜならそうしなければそうならなければ自由や成功という木の実を手に入れることは死ぬまでできないからだ

今一度人間はよく考えなければならない

どうすれば自由になれるのかを

 

少なくともそれは今の社会を続けることでも

今のままの自分であり続けても手に入れることはできない代物である