結果の価値の感覚の差異

同じ1人の選手が

メジャーリーグで投げる1球とNPBで投げる1球と草野球で投げる1球に対する価値は同じではない

だが価値は同じでは無くても中身は同じである

そしてこれは何に対しても言えることだ

同じ人がコンビニでやる接客と一流ホテルでやる接客に対する対価は全然変わってくる

中身が同じであったとしてもだ

これはつまりどういうことか

何をもってして価値とは対価とは決まってくるのか

勤めている場所や環境で変わるのか

同じ馬鹿でも総理大臣から底辺労働者までを位置づける決定は何で決まるのか

それは決して能力や中身によるものではないのではないか

IQが2500億あっても中卒ならば中卒だし160㎞/s投げれても草野球は草野球だ

これはつまりなぜなのか、どういうことなのだろうか

なぜこのようなことが起こるのか

それは、私には分からない

敢えて言葉にするのだとしたら「そうなるべくしてそうなった」というのが適切だろうか

例えばここから湧き出る水は環境にも恵まれて奇跡的にミネラルが豊富に含まれているすごく素晴らしい水なんですよという代物があったとしてもあなたがその水の存在を認知していなければその水を買うだろうか

つまり「知っていますか?」ということなのだ

結果とはつまり「あなたは何も知らないんじゃないの?」という「結果」でしかないのだ

その物の中身や能力を認知していない、だから価値を与えられていないということなのだ

つまり私が「ゆうゆのクイズでGO!GO!」という神ゲーをやっていてもそれを観ている誰もが何の反応もしない

これは見ている側が「知らない」のだ、このゲームの面白さを知らないが故に起こる悲劇なのだ

もし知っていればこんなことにはなっていない

つまり結果の価値の感覚の差異とは「認知」の差異なのだ

なので「あぁ、この人は何も知らないんだなぁ」と思うことが正しい

つまり世間や他人はあなた自身が知っていることを何も知らずに飄々と生きている恥晒しのようなものなのだ

ゆうゆのクイズの面白さが分かる者はそのクイズが分かる者にしか与えられない特権なのである

つまり分からない者には面白さが与えられることは決してない

この世は分からなければ何も与えられないのである

どんな面白いものもルールやロジックが分からなければ楽しめないのと同じである

だから私は今日も声を大にして言い続けなければならない

知っていますか?と