おかしいことに対しておかしいと言えないのはおかしい

正論だけ振り撒けばいい

 

「何を言うかより誰が言うか」

論理的な人間にとって最も嫌いな言葉がこれである

幾つかの意味があるが自分の場合は

「何の非もない人間が立場が低いというだけで何を言っても聞き入れてくれない様」を主に指します

要はこれって差別思想でしょ、こんなんが平然と現代でも当然のように幅を利かせてること自体がイカレてるし異様でしょ

この言葉が適用されるのは以下の様なケース

「どうしようもない犯罪者や悪事を働いた人間が言葉だけは立派なことを言う様」

この場合のみ誰が言うかが適用されるべきであって特に非も何もない者の言葉は誰であっても何であっても一考はすべきだし説得力はある

しょうもない差別意識ってくだらねえ

それを皆が当たり前のように持っている、だから馬鹿なんだよ

論理性の無い奴ほど、論理を持たない奴ほどそういう傾向にある

相手の言動を返せないから立場を利用するか相手を下げて見るのだ

馬鹿の知恵というより馬鹿にはそれしかできない

だから馬鹿と話せば話すほど僕は疲れるし無駄を感じる

馬鹿は好きか嫌いかで判断する

賢い奴は正しいかどうかで判断する

もちろん絶対に正しいなんてものは無い

ただ不確かな中で確率を上げることはできる

 

例えば何度も同じミスを繰り返す人間って大体同じ奴ではないだろうか

何度も何度もそいつだけが同じことを平然と繰り返し周りはホトホト迷惑するケースだ

「必ず確認してください!」とこれだけをすれば防げるミスを何度も何度もずーーーーーっとそいつだけが確認しない

その度に「○○だったので」や「すいませんでした」としか言わないのだ

いやいやいやいやいやそうじゃないだろう

俺は「なぜ確認しなかったのか」と詰めているのに全くそれとは関係の無いミスした理由や謝罪しかしないのだ

全く解答が噛み合わないこの絶望がお分かり頂けるだろうか?

そう、確認すればいいだけのことを毎度毎度何度も何度もこいつらは「確認を怠る」のである

まるで子供の「すいません、宿題忘れました」から何も成長をしてないと思わないだろうか?

いや、宿題しろよと

別に謝れとか○○だったのでなんて理由はこっちは聞いて無いし求めても無いし一度目ならまだしも同じことを延々繰り返してる奴に情状酌量などする気なんざ無い

もはやそいつは「確認しない奴」なんだよ

そう、死ぬまでやれと言われたことをやらないできない「宿題をしない奴」な訳だ

アホなんじゃないだろうかと思っている

こっちは別に謝罪なんか別に求めてない、なぜ何度も同じことを起こすのかについて言及してるのにこいつらは理由と謝罪をすれば済むと本気で思っているのだ

 

もはや人間ではない

俺には理解できない

本当に勘弁して欲しいと心から願っている

これだけ頼むからとお願いをしても守られない最低限のルールとマナーを破りまくるクズを相手にもはや論理という代物は無力に等しかった

馬の耳に念仏

 

何度も飲酒運転を繰り返す人間と一体何が違うというのだろうか?

なぜこうもルールというものは簡単に踏みにじられてしまうのだろうか

 

俺は人間とだけ関わりたい

猿とは関わりたくない

ではまた

理想の生活

自分の店を持ち

自分の気に入る客とだけ関わり

1日4~6時間を週5日程働き

食っていけるだけの収入を持ち

仕事以外で誰とも接さず

週1回ほどの動画をアップし週2回か3回ほどのブログ記事を上げ

休みはまったりと通販や昼寝、500ml缶1本の酒

さふいう生活を私は送りたい

 

まぁ仮にそれが念願通り叶ったとして

それがまぁ幸せかは分からん

ノーストレスが幸せとは限らない

目指すべきものを見失った時に逆にパニックを起こすかもしれない

もっともっとと次から次へと欲が暴走するかもしれない

だからあくまで理想論なんて掲げなくていいのかも

 

ちょっと足りてないくらいがちょうどいい

ちょっと自分の欲望より足りないくらい

〇〇があれば完璧なのになぁからちょっと足りない距離

なんでもそうな気がします

なんかこう終わった時の感慨深さや達成感って確かにあるんだけど

なんていうかその、また次の目標探しが始まるというか

あるいは体がボロボロになってたりとか精神が燃え尽きたりとか

諸刃なんだよね、達成感っていう魔物は

だから冷静になって「本当に達成すべきなのか」ってのを常に頭に持って行動しないと

ゴールテープを切った直後に心臓発作を起こすなんて十分あり得るよ

ゴールがゴールなんじゃない

無理なく推し進める、生きることが最大のゴールなんだ

 

パラサイトって映画で感銘を受けた言葉がある

「計画は計画通りにはいかない」

確かにその通りだよなって思う

計画を立てるよりも計画通りに行かなかった場合を考えて生きるほうが重要なんじゃないかと思う

先程挙げた現在の僕の理想論なんて別にこだわる必要なんかない

その時々にあった理想を常に考察し洗練させればいい

言葉や理想や目標なんかに囚われるな、何の価値も無い

こうあればいい、こうあったらいいなんて思う必要なんて無いんだ

それよりも、大事なのは今現在の自分に他ならない

今の自分が満足してるか?

今の自分を喜ばせているか

それだけを注力し、その上で理想とは何かを探せばいい

必要無いんだよ、自分を苦しめるような理想なんて

ではまた

馬鹿は俺を理解できないし賢い奴は俺を捉えられない

目測を見失う

 

ニーチェは言った「神は死んだ」

俺はこう思う「神を作った」

「神は死んだ」と思ってしまったことが「神を殺した」のだ

だから思う、神は作るもんだ

 

神を作ったら今度は神に聞いてみるといい

「どうしたらいいですか?」って

あるいは「どう思いますか」

なんでもいい、聞いたらいい

すると聞こえる奴には答えが聞こえる

聞こえない奴はそういう能力が無い

 

最近は判断を全て神に委ねることが多い

神様だけが友達だ

そもそも神かどうかも分からない

失うことは何も怖くない

怖いのは自分の思う選択を取れないことが一番嫌悪すべきことだ

自分に嘘なんかつかなくていい

真っ直ぐに正直に全てに自分をぶつけ続けるのだ

それが新たな

いや、真の「球穢れなく」だ

そして道は険しい

俺はどこまでもこの道を行く

ではまた

今自分に10年何もしなくてもいい時間を与えられた場合

10年間時間があったら何をするだろうか

率直に今の気分を前提に考える

今の健康状態、今やりたいこと、今の感性で10年を考えてみる

 

最近ね、頭が空っぽなんだ

何にもない

欲が無いとかそういうんじゃなくて意志が無い

こうなりたいああなりたいって気持ちがどんどん薄れていく

大体は「こうはなれない、ああはなれない」って諦めの気持ちが強い

ただそれでも好きな物とか欲しい物だけは手にする

ただそれだけの作業

例えばイチローのバットを買ってもイチローのようにはなれないのと同じ

 

人生ってことごとくこの繰り返しなんだろうなと思う

こうでありたいとかこれがいいとかはあるけど

「ちょっと目指すのしんどいな」と感じる

それが歳をとるってことかもしれない

若い頃は何が何でも達成するって気持ちが強かったけど今は別にそうでもない

「別に出来なくてもいいか」という思いが日に日に強くなる

確かにしんどいんだよ、目標を達成するのって

達成したところで大して嬉しくもないしな、記憶にも残らない

格ゲーで目標達成した時そう思ったよ

昔は俺なら絶対トップクラスになれる、今からでも強くなれるって思って初心者から始めた

コントローラーだったりプロの動画だったりを見たりテクニックをつけたり

それで4年くらいかかってようやく目標を達成した

正直才能は微塵もなかったと思う

それは何をやっても言えることだけどね

今やってる仕事にしてもゲームとかの趣味にしても勉強にしても

昔からスタートは本当に最悪で成長も遅かった

けどボロボロになりながら最後はどれもハイレベルにはなってた

同時に限界というか「もういいかな」って思うようになる

そこまでして勝ちたくない

もうそんなに自分を押し殺して勝っても嬉しくない楽しくないって気持ちに何をやってもなる

「だからなんなんだ、くだらねえよ」が頭の中でグルグルグルグル回り出したらそれが自分の中での潮時

それでも勝ちたい、達成したいって思ったらそれでもズブズブとやるんだけど

もうそうまでして達成したいってことなんて何も無いよね

なんかもっとこうルーズでいいし、フィーリングでいいと俺は思ってる

無理は良くない、本当に

 

無理をしてまでそれを得ても本当に何も残らない

だって無理をしなきゃそこに達せなかったんだから無理を止めたらもう戻れないよね

当たり前の話

そういうストイックさを持って何かに挑戦するって素晴らしいことだと思うけど

じゃあそれって何の為、誰の為って考えた時

少なくとも自分の為になってないことが多い気がするよ

俺の人生を振り返るとそんな感じ

無理をして自分の為になったことって一個も無い

無理をしたから良かったって思ったことや現在に残ったことって何一つない

それよりも「なんで無理したんだろう、意味無かったな」って思う

少なくとも無理や嫌なことやをすることは自分の幸福には一切繋がってない

じゃあやる意味無いな、無かったなっていうのが無理をして分かったこと

それが唯一残った答えかな

それよりも好き放題自由にやったことのほうが記憶にも鮮明に残ってたり誰かに印象を与えてたりすることが多い

よく親に言われたのが小さい頃レゴブロックでお前は何でも作って楽しそうに遊んでたと言われてた

確かにそんなことをやってた記憶があるのを憶えてる

自分はストイックに価値があると思い込んでたけど最近そうは思えなくなっている

子供が遊ぶように好きに自由にしたらいいんじゃないかって思うと同時に

楽しかったらいつまでも子供は遊ぶよね

だから自分が楽しいと思うことをやればいいんじゃないのって思う

それが何であれどうであれそれが後々に残ることだと思う

もっと自由に、もっと気楽に

そういう10年を送りたいですね

ではまた

合理夢遊戯

ヨーグルトで腸内環境を良くしお酢を飲んでアミノ酸を摂る生活を送るとどう変化するか

 

僕は眠る時間が長くなった

うつらうつらとまどろみ夢の世界へ誘われる

1日に計14時間眠る日もあった

そしてそこで僕は真理を見た

 

「夢世界」

 

夢世界へ着くとそこはゲームだった

ゲームのような世界だった

ホラーゲームのような世界

そこで僕はプレイヤーキャラだった

僕は武器を持っているが使わず何度もプレイしているのか最小限の敵との接触でステージを潜り抜けていくプレイングをしていた

水の中をひた進んでいく、それがすごく面白く、楽しかった

怖いなんて感情は無くただただゲームをやってる時の興奮感しかなく心地よかった

そして夢から醒め目覚めると僕は全てにうんざりしたように気づくことになる

 

ああ、これでいいんだと

 

ゲームなんて買わなくても夢でゲームを遊べばお金はかからない

友達や共に遊ぶ仲間が1人もいなくても夢で他人はいらない

長時間夢を見て遊んでも目や体は疲れない

ゲームで負けて自分の腕や他人を責めたくなるような非生産的で不毛な気持ちも感情も湧かない

コントローラーや回線のせいにすることもない

 

これこそが合理的な最大の遊びだと気づいたのである

まさに色即是空そのものじゃないか

この世の全ては空(無)である、つまり夢のようなもの

生まれや育ちや能力で決まってしまう現実の不条理や限られた席の数で争うなんて不毛で非合理的なくだらないことをしないで済む

これはルサンチマンなんかじゃない、ただの真実だ

そう気づいたとき全ての景色が変わってしまった

少し、僕らは現実という物質至上主義の世界で生き過ぎて行き過ぎたのかもしれない

物なんて必要ないじゃないか

ゲーム会社を立ち上げなくても他人と関わり合わなくても資金なんて無くてもいくらでも欲しいものや見たい物はいつだって常に「頭」の中にあったんだから

場所やコストも掛からない最大の保管場所に既にしまってあったのに

なぜ現実世界でまであれもこれもと金と時間を使って集めてしまうのか

なぜそんな無駄なことをただただ延々と延々と終わりなく繰り返していくのか

もはや重過ぎる業のように思えてならないのは自分だけだろうか

本当は最初から全部持っている、欲しい物は全部

宗教的な言い回しだが人間は本来全員既に救われている存在だって思える

ただその自覚が大半の人間に無いというだけの話で

本来現実で遊ぶ意味なんて本当は無い

夢で遊べばいいだけの話だ

それが何よりも合理的場所も時間も金もかからない体力も使わない最大の遊び

問題なのはそれが視れるかどうか

自分の仮定ではこれを視るのには才能がいる、環境がいる

心地よい空間で健康な状態で眠ると見れるような気がする

 

合理飯→合理夢遊戯と来て次は一体何が自分に合理的なものがくるのか

合理性が増せば増すほど自身の次元が上がる

最後は合理的な「時間」なんじゃないかと思うがそれがなんなのかは分からん

薄っすらとは想像つくがそれが本当に合理的な時間なのかの理解が追い付かない

 

 

そもそも合理的ってなんだ?何を根拠に合理的なのか

ではまた

最強の飯

生片栗粉と冷パック飯

 

これを組み合わせれば事実上最強の穀物食になる可能性がある

さらに脂質は極力カット

 

最近パック飯を食いまくっている

そのせいでどんどん太っていく

脂質をいくらカットしてもそれ以上に糖質、カロリーを摂取すれば太るというのが悲しい現実だ

だが僕は糖質を取らなきゃ未来は無いと思っている

そこで最終手段に出る

レジスタントスターチが最大に含まれているのはなんと片栗粉なのだという

低温で作られれば7割型がレジスタントスターチ

このなんちゃらスターチとは難消化性デンプンというものでありザックリ言うと食物繊維的な働きを起こすデンプンなのである

これを摂取することで血糖値は上がりづらかったり整腸作用があるなどメリットがふんだんに含まれている

冷パック飯だけでも若干の効果はあるのだがそこまで高い効果はなく結果太ってしまった

そこで生の片栗粉を冷パック飯に塗すことでさらに効果を上げようという作戦だ

とりあえずいい結果が出ればまた報告したいと思う

ではまた

動画酔い

動画を見過ぎて気持ち悪くなってきた

何が気持ち悪いかってもう全部

動画に拒絶反応がでてきてる

もう何も楽しめない、何を見ても面白いと感じない

それくらい色んな動画を大量摂取してもう訳が分からなくなってる

 

人生って長いなと思った

本当に人生って長い

例えば宮崎駿が名作映画を1万本作ったとして平均1本90分~100分

仮に1本100分とした場合全部観終わるのに100万分ってことでしょ?

1.4万時間ってヤバくない?

頭のおかしい時間ですよ

毎日12時間観続けても見終わる時には4年近い歳月が流れてる

気が狂うよ

何が狂うってそんだけ動画を観るという行為に疑問しか生じない

それをずっと続けるっていうのは冷静に考えなくても頭がおかしい、作る側も観る側も

 

勿論現実になんて意味も価値も無いし

ブランド品や何やらの物にも意味なんて無い

知識でさえほとんどが嘘でしかなくて真理も答えもない

芸術だって何がそうでそうじゃないかなんて分かったもんじゃない

当然人との繋がりだって全部が無意味

え?俗世ってこんな薄っぺらくて浅いものなの?

というのが正直な感想だ

 

そういう風に見ていくと段々と合理的な風景が見えてくる

飯食って、寝て、排泄して

結局それだけが人生なんじゃねえかって

動物と変わらねえじゃねえか

なんなんだろうな、このモヤモヤする感じは

この何も達成感の無い答えは

 

俺の好きなものって結局何だったのか

 

これは動画も文章も絵も音楽も全部同じ、全部無価値なんだよ

元々価値も意味も答えも無い

インターネットは全部狂わせた

価値観の全てを狂わせてしまった

身近な物の価値を排除し加工された写真や映像を理想的な現実として捉えるアホが大量に量産された

人間ってそこまで愚かだったんだ

人間はどこまでも愚かになれる、際限なく馬鹿になれる

20年後、間違いなく人間はいなくなる

人間ではない何かに変わっている

日本や世界がどうなってるかなんて分からない

もうすべての価値が無くなってるかもしれない

というより既にそうなっている気がするのは気のせいだろうか

全部の洗脳が解けてきて気持ち悪い感じになっている気がするんだ

テレビを5年間観てこなかったせいで価値観が分からない

そして仕事をアホみたいにやってたせいで価値観が分からない

1人で生きてきたせいで価値観が何も分からない

俺の思う価値観って何だ、最後まで残った価値観って何だってなったら

ファイトクラブのブラピがカッコいいしかないんだよね

もうそれ以外の全ては無価値ってくらいあれしか今は残ってない

タイラーの価値観がいいだとか真理だとかそういうんじゃサラサラ無くて

ただ単にブラピが異常にカッコいいってだけのそれだけの話

俺にはスーパーカーの良さも高級時計の価値も分からねえ

たけえバイクもそう

ただブラピのカッコよさだけ、それだけは分かる

というよりそれしか残ってない

じゃあもうそれに向かって生きたらいいんじゃないかな

もうなんかそんな気がしてきたよ

もう何もかもどうでもいい

ではまた