底辺である自分を許すべきだし底辺である自分を楽しむべきだ

収入は激減し僕の未来は潰えた

 

でもいいじゃない、それもいいんじゃないと思う

僕はもうやりたいようにやる

これからの毎日をハッピーセットにする

もう頑張る必要も理由もどこにも無いんだ

 

ある意味ではコロナに感謝するべきなんだと心から思う

それだけ僕の体と精神は限界に近かった

そんな4年半の間を過ごしてきた

それをこの期間ゆっくりと時間を掛けて実感しゆっくりと理解できた

元々持っていた真面目な資質、それがこの4年という時間だったなと思う

でもそれって本質じゃないよなと今は思う

思考停止で真面目に生きて本気で働いてクタクタに生きてってスタイル

奴隷は皆大体そんなもんだろって言われたら今でも確かにそう思うけど

でもそれ本質じゃないよねって思う

何が本質で何がそうでないかなんて線引きや証拠は存在しないけど

なんとなくの感じフィーリングでそれが本当かそうでないかは分かる

とりあえず自分が思うのはもっと楽しく生きようってこと

なんでもかんでも真面目に取り組むのは本当に良くない

いやいいことなんだよ、真面目にやるのは

でも自分を疲弊させ過ぎてまでやる真面目なんてのは本当に良くないことだと思う

そんなのは本末転倒だ

自分を喜ばせる為に生きているのに自分を苦しめてまで生きる生なんてのは本来の目的を完全に見失ってる

やりたくもないことをやってまで生きなくていいんだよ

やりたいことだけやって楽しく生きてりゃそれが一番いい、最高の贅沢だ

僕はもうそれが既に見つかっているはずだ、あまり実感が無かったり気づきが薄かったりするだけで本当はもう十分持っている

自分が本当に欲しい物は何か本当は気づいてる

じゃあそれを何よりも最優先して手に入れようよって話だ

払えない額やできないことじゃ本当は無いのにどこか躊躇したり遠慮したり一歩引いたり消極的になってばかり

それ、無意味だからやめろ

と自分に洗脳を解除する

どこか無意識にかけてたセーブや我慢、確かに無意味だ

無意味なのに必死にそれに縋ってセーブしていた、理由も無くただなんとなく

無意識にそうしないと落ち着かなく恐ろしく感じていたからだ

確かに金を使うことにビビっていて、あまり労働しないことに漠然とした不安があった

「こんなことしていいんだろうか」って不安が募った、特に決定的な根拠なんて無いのに

ただなんとなくああしなきゃこうしなきゃこうはなりたくないって毎日毎日毎日毎日

僕は何かにとんでもなく恐れていた

あれは怖いこれは怖いあれは嫌だこれは危ないなんて何の根拠もなくただ何となく何となくの食わず嫌いの連続で

情けなく思う、それが良い悪いに限らず僕は思考停止してそれを信奉していたのだという事実が情けない

勿論タイミングやらなにやらもあったと思う

それがその時にはモアベストだったりそれ以外の方向性が見えてないのも事実だった

でも今となってはもうその当時の方向性とはまるで違ってきている

時代は刻々と変化している

だから自分も変わらなきゃ駄目なんだというのをヒシヒシと伝わり感じている

これからの僕はもう労働なんてし過ぎないしお金も稼がない

それでいいんだと思う

そして僕は楽しむ、生きる毎日を楽しく過ごす

そして全てを達成する

少しでもやりたいと思ったやりたいことをどんどんやっていく

それが何であれ貪欲に求めていこうと思う

ではまた

合理性で物を考える

人生は無意味である

 

しかし、もしもその「この世は全て無価値」という価値観さえも作られた虚構だったとしたら?

話を変えよう

アダムスミスが国富論を唱えてから今日の人類は資本主義という嘘に塗れた宗教を信奉してる

もういい加減金がどうこうが嘘っていうのはバレてきたし

愛がどうたらというのもバレたし

家族がどうのこうのもバレ

家車に何の価値も無いこともバレた

 

消費する価値を持たない資本主義

 

と言いつつも僕は消費している

ただ使っている物が違うだけ

必要ない物を選択から排除しているだけだ

人類はこれからどうなりますかなんてクエスチョンはハッキリ言ってどうでもいいし興味もない

 

僕は何の為に食べ何の為に消費し何の為に生きているか

結局はそれは生命活動を維持する為にやっているに過ぎない

それ以上でも以下でもない

何の為に生きているかについての「意味」づけの哲学は分からないし考えない

答えなんて用意されてないからね、意味を考える意味が特にない

「何の為に生きているのか」と問われたら「分からない」と僕はハッキリ答える

実際本当に分からないからね

自分が生きたい訳でも家族の為でもない

本当に何か分からないけどただ生きてるだけ

 

そのニヒリズムな無意味の肯定がニーチェの哲学

無意味でいいじゃないか、無意味を喜べよと突き付ける

それが出来たら超人だぞっていう

 

何かに意味と価値を見出しその背後世界に囚われることを無意味だからやめろと否定し

全部無意味だけどその無意味さを肯定しろっていう訳の分からん話

全部無意味でどうしようもなく価値なんざ無いけどそれを喜べよ、肯定できなきゃ末人だぞ、クズだぞと迫られる

 

例えるなら「うわーこれ無意味じゃん、何の意味もねえ、でもいいよね」って思えるような感覚か?

だとしたらそれは一見非合理的なのに合理的であり

無意味でありながら意味を持っているという矛盾した性質を持ち合わせている

「ブサカワイイ」であったり「残念なイケメン」であったり「カッコカワイイ」「馬鹿賢い」「真面目なのに馬鹿」

みたいなものだろうか

「無能であるが故に有能」「有能であるが故に無能」

綺麗は汚い、汚いは綺麗

やはり全てはマクベスへと回帰するのか?

 

だがその通りだと思う

現在は「お金」が価値の全てな社会だが

それは所詮作られた虚構でしかない

金の実態はただの紙であり数字でしかない

何を以て価値とするかなんて所詮誰かが作った訳の分からん定義でしかないのだ

 

つまり、つまりだ

「これ何の意味も価値も無いじゃん、こんなの非合理だよ」というものが

何らかの影響で「これは意味も価値もあるものだからこれは合理的だよ」となることなんて本来十分あり得る話な訳だ

そこに理由だとか原因なんてものは存在するかもしれないししないかもしれない

意味を考える意味なんて無いのだから「そうなればそうなる」としか言えないのだ

世の中における「価値」なんてものは集団催眠で起こる現象でしかない

それは金に限らず全てがそうだ

 

さぁ無意味の岐路に僕は立たされた

僕は無価値と無意味を無価値と無意味に肯定しなければならない

そして合理的、非合理的や意味と価値なんてものは本来存在し得ない

真の意味も合理的も価値もない、全ては大いなる正午により無となる

そこで僕は無を肯定しなければならない

そして無の合理的とは何か

無とは無意味で無価値である

無意味と無価値の合理性って何だ

同じ場所の土を掘って埋める行為の合理性って何だ

それでさえ運動という合理性と意味と価値が生じてしまう

もっと他の例えで無いのか、無意味と無価値に合理性を付与できることは

所詮僕の囚われてる合理性など脳に植え付けられた資本主義における合理性でしか無いのか?

そんな背後世界、誰かが作った価値観を前提にした合理性なのか?

考えろ、僕における真の合理性とは何だ

僕は一体何をすべきなんだ

合理性とは

 

アルティミシアは全ての存在を否定した

果たしてそれは合理的と言えるだろうか

 

薄っすらと僕の合理性が浮かび上がってきた

ほんの薄っすらと

やりたいことをやって死ぬという合理性

合理的なことをやって死ぬという合理性

僕は合理的に生きる

ではまた

足るを知る

人生の幸福は足し算ではなく引き算

 

もし自分が生きるのに十分な財産があったらとシミュレートしどう生きるかを考察したところ以下のようになった

 

・家、車、家族を持たない

・友人、恋人もいない

・仕事量を減らし労働時間は週21時間程度

・自分の人生の最期は病院で、または孤独に寂しく病死することが望ましい

・合理的の先にある物とは孤独である

 

次に現在の状況はというと

・家、車、家族を持っていない

・友人、恋人もいない

・仕事量は週31~33時間程度

 

ほぼ今と遜色なくない?

仕事の時間が週10時間減るだけ

後は機材とかがちょろっと買えるようになるだけか

あとはまぁ将来性が安泰してるから多少無茶なことができるってことくらい

まぁそのメリットは大きい気がするけどね

将来安泰だわと思って生きられれば余裕が圧倒的に違う

職を失おうがどうなろうが考えなくて済むからだ

やはり合理的観点から見ても資産形成は非常に重要だと言うのがよく分かる

でもこの程度の望みなんてちょっと親ガチャで当たればなんなく達成できそうなハードルだよなという気もしないでもない

やはり人生は運ゲーだなと思う次第であった

人生ってしょうもないね

ではまた

白球

――さぁこいつを打ち取れば全部終わりだ

 

「4番、センター、沢野」

ワアアアアと球場全体が怒号のような歓声で鳴り響いている

ペナントレースも終盤、現在首位と0.5ゲーム差まで肉薄した争いを繰り広げている両者の3連戦の最終戦が行われていた

この試合を決したチームが優勝を決める

試合は3対2の9回の裏2アウト、ランナーは無し

しかし迎え出たバッターはホームラン数両リーグトップの球界を代表する打者、沢野である

チラリとベンチを見る、敬遠の指示は出ていない

ふう、と一呼吸を入れて打者の沢野を見つめる

オーラが凄い、闘志が剥き身出たとてつもない雰囲気を感じる

キャッチャーのサインは外角ストレート

確かにその指示は同意だった

この場面、そしてこれほどの打者ならば初球から打ってくることはまず無い

ならカウントを優位に進める為初球のストライクは必ずとっておきたいところだ

と納得し頷いて投球動作に移ったがなにせこの場面、とてつもない緊張と重圧がかかる

動きの1つ1つの全てが重く感じる

この1年間の全てがもうあと、あと1人で決まってしまう

調子は決して悪くはない、良くも無いが

それでもこの、この1回、この1回の勝負を勝たせて欲しい

強くそう願った

その想いを手に込めて力強く腕を振りぬく

バシンッと大きく音をキャッチャーミットが響かせ静と動が球場を包む

ストライクと球審が告げまずは1ストライク目を取ることができた

ここから、ここからだ

次は、次はどこに投げる

全くプランなど考えていなく初球の沢野の反応を窺いながら攻めの戦略を構築する

捕手の指示はボールになる外角低めへのスライダー

いいぜ投げてやる、揺さぶるにはいい案に思える

ストライクゾーンじゃないことから初球よりは幾分か気楽に動作に入れて指示に目掛けて投げる

ボール球だ

沢野はこれを見逃しカウントは1-1へとなった

相手は一流打者だ

どこでカウントを取ればいい

コースを読まれれば危険極まりない

試合前に見たデータでは沢野は外角を得意とする打者でここ5試合のデータでは外角に対する打率は最低でも3割8分を超えておりど真ん中に至っては6割を誇っていた

ヤベエ打者だ

もう最悪歩かせばよくないか

勝ちたいんだよ

リスク侵す意味ある?これ

沢野はビッグマウスでよく記者に暴言を吐くことで有名だった

特に敬遠された日には相手チームの監督や選手に対しては「チ〇ポコついとんのかワレ」と言うのがもはやお決まりだった

特にこんな試合のこんな展開、歩かせれば何を言われるか分かったもんじゃない

監督はブルってんだ

俺は段々とムカつき腹が立ってきた

そこで1つの考えが浮かび上がり覚悟を決め投球動作に入る

渾身の全力のストレートを沢野の股間目掛け放る

沢野は打ちに行った構えを戻せずモロに股間に152キロの速度で放られた硬球を受けることとなった

その後無事に我がチームは試合に勝利し沢野は金玉を全摘出、無事女の子となった

記者への質問には「まだチ〇ポコはついとるわオレ…」とコメントし場を和ませた

来シーズンの戦いはもう始まっている

V2へ向けて俺達は白球を投げ込む――

 

この世で幸福に生きる方法の考察

暑い

キツイ

どんな金があっても

どんなに時間があっても

この暑さとキツさから逃れる方法などあるのだろうか

 

滅茶苦茶屈強な存在以外無理だろう

Tシャツ1枚で歩いて熱中症になるんじゃないかって思うほど暑く

それともただ僕が脆弱で虚弱なだけだって言うのだろうか

富士山までチャリで行けるこの僕が?虚弱?

おいおい、そりゃもう訳分からんぜ

 

トリプルニンニク牛丼を口内にかっ込みストロングを流し込む

この単純な作業が、単調な作業が脳を向こう岸まで誘ってくれる

 

「武から身を引けい」

 

そんな郭海王の言葉が聞こえる

ともかく、ともかくだ

仮に金があってウーバーイーツで牛丼を毎日注文しても

株の配当で仕事なんてしなくとも良くても

綺麗な伴侶がいたとしても可愛い我が子がいても

多分幸福なんて無いんじゃないかなぁなんて思う

だって暑いもん、だってコロナだもん

単純にそれだけな気がするよ

逃げ場がねえもん

どれだけ近場にチェーン店があろうと欲する物が気軽に手に入ろうと

もうこの暑さキツさ苦しさから逃れる術など無いでしょう

俺もこんなにギャーギャーギャーギャーと言いたくない

言いたくないが本当に暑いんだ

避暑地は避暑地で何にもない、不便極まりない

人がいるから便利に生活ができるし金にも意味が生まれるんだ

もし人類が僕だけになってしまったら金なんて何千兆と持っていたって何の意味も価値もない

極端だけどそういうことだ

知識も無価値になり財産にも意味はなく力も関係ない

孤独と孤立は全ての価値を無に返す

如何に我々はフィクションの中で生きているかがよく分かる

話を戻そう

どうやったら人類は、人生は幸福になることができるかだ

金がありゃいいのか、時間がありゃいいのか、仲間や家族に囲まれてりゃいいのか

 

多分本質はそのどれでもない

本質は、その本質はおそらく

おそらく本質は、本質なんてものは存在しない

何も無いんだ

金持ってようが何だろうが才能があろうが無かろうが

僕には何もない、そんな気がするよ

 

後世に残す物も遺したい物も何もない

伝えたいことも何もない

ただただ日々を虚無に過ごす

コーヒーは今日も苦く夏は暑いです

「僕達は動物だ」って14歳の少年みたいなことを言う

「僕たちは猿だ」って思春期の子供みたいに言う

「僕はモンキーだ」って真実に目覚めた20歳の青年にだって

今日のような暑さに苦しみ悶え生きている

 

僕の最終目標は何だろう

僕の幸せは何だろう

涼しい部屋で1人訳の分からん文字を読んで打って書いてブツブツと呟いて妄想に更けて

そんな気が狂った生活を送ることが最適解なんて思えなくて

僕の幸せはどこだろうって13歳のような悩みを呟いて虚空に囁いて返事は無くて

人形にさえそっぽ向かれて孤独に孤独にまだ孤独に

1人の夜は今日も更けていくのです

 

「理解者なんて現れない」そんな真理は10年前にとっくに見抜いてて

何があっても僕は無力なんだ

僕は文字を見て読んで書いて打って

僕の理想を探し続けるのだ

涼しい部屋で、涼しい部屋で

涼しい部屋で理想を探すよ 探すよ 僕は探すよ

僕は理想を探し見つけ手にするよ、涼しい場所で

暑い場所になんて僕は居たくないから

ではまた

服や靴を買い過ぎてウンザリ

ユニクロで2万円分のTシャツと靴下

GAPで1万5千のデニム

ABCマートで黒のVANZのスリッポンとNBの996で2万円

その他ブランドでレイヤードの白タンクトップとベルトで1万2千円

無印良品で白シャツとTシャツで9000円

アクセサリーで6000円

スチームアイロンで6000円

 

俺はもう疲れたよ

10万くらい服に使ってんじゃねえか

しかも黒と白の服と靴ばっか

色見が違うのなんてベージュのベルトくれえだ

それについてはまぁいいんだけどさ

 

もうね、お金の使い方がお子様ランチ

行き当らいばったりで後追い後追いで知識をつけるから「あれが足りない、こうだああだ」で無駄な買い物がどんどん追加で増える

多分2万くらい節約できたんじゃないかな、そうでもないか、精々1万円くらいか

まぁそれでも1万円って大きいですよ、完全に無駄にはならんけどなんかこう勿体ない感

ただ成長という部分は感じるのがせめてもの救い

僅か僅かで金と時間を消費しながらアップデートはされていってるなというのは感じる

ただ元々ファッションに対してそんなに好きじゃないのでこれ以上は勘弁願いたい

僕なんかはもう最低限でいいんです

特に欲しいアイテムなんて本当は無いんです

ただ、なんだろうね

必要かなと思っただけなんだよね

ボロボロの物をいつまでも着続けるのはマズイでしょと

シンプルにそれだけだよね

 

それにしても疲れた

買って後悔は無いけど衣料品って高くつくなぁと思ったこの頃でした

ではまた

仕事に行きたくない、けれども家にもいたくない、どこかに出かけたい訳でも無い

結果が欲しい、簡単に物が手に入って能力をつけて理想通りの結果が

 

本を読んだだけで究極の思想を手にするような

息を吐くだけで能力が上がるような

そんな結果が私は欲しい

ヘーゲル弁証法により人類は進化を遂げると言ったが私は無理だと思う

どれだけアウフヘーベンしようと「楽して力を得る」なんてことは永遠に叶わない

不老不死もそうだ

 

キルケゴールもおかしな話に思える

自分自身なんてそんな重要なものだろうか

勿論そうだという人間もいるのは確かだがそんなに自分って大事だろうか

そこまで価値や意味ある存在と言えるだろうか

それすらも怪しく思えてならない

 

デカルトは観測者としての自身の精神は存在するみたいなことを言っていた

確かにいるがいたからなんだ

観測していても面白くも無ければ楽しくもない

矛盾だらけで起伏も無いつまらない映画のような何かを延々と見せられていく「自身の生」というコンテンツに意味と価値はあるのだろうか

 

自身の人生に絶望した時人はどこへ向かえばいいのか

やれ神だ宗教だそんな話はクソほどにもどうでもいい

 

 

ニーチェは高みをひたすら目指せと言いプラグマティズムは役立つことに特化しろと言いアダムスミスはやりたいことをやればいいんだよと言うが

 

どいつもこいつも間違っている気しかしないのは俺の気のせいか?

 

釈迦は欲から解脱しろと言ってたか

それもどう考えても違くないか?

フロイトは無意識に意思は操作されてんだって言う

じゃあ俺達は思考なんてものは本当はしていない、或いはほとんど思考なんてしてない

虫や動物とほぼ変わらない本能で動いてるということになる

じゃあ自殺する人間がいるということは無意識に生きたくないと思う人間がいるってことになる

じゃあつまり全ての人間に当てはまる共通解なんてあり得ないし存在しないってことだ

 

じゃあどうすりゃいいんだ

俺は何が幸せなんだ

どう生きたいんだ

そして何になりたいんだ

何も分からない

答えなんて無いのだとしても自分が求めることくらいは分かっておきたい

そんなものが例え存在しない「無」なのだとしても

「依存」に依存したい

でなければ生きるということに意義が薄すぎる

目的も目標も薄すぎて耐えられない

俺の人生に意味と目的をくれ

幸せなんかいらない

俺は何の為に生きてんだ