「球穢れなく道険し」の解釈

この言葉は奥が深くてですね

いくらようにも解釈できるんです

僕はそれがちょっと面白いもんだなぁと思うんです

まぁただの言葉遊びだと言われればそれまでなんですが

その「遊び」こそが最大の娯楽になったりなにかのヒントになったりすることも時にあるんじゃないかという気になります

気になるだけですけどね、根拠はありません

 

球穢れなく 道険し

 

この球というのはまぁありきたりですが魂という言葉にも置き換えられるんですよ

つまり魂に穢れなく生きる けどその道は険しいよという解釈

あぁなるほどなぁと思わせてくれる言葉になる

そもそもが球穢れなくとはなんぞやということだ

スポーツマンシップ的な言葉なのか、紳士的なプレイということなのか

相手に敬意を払うだとかそれとも球技そのものに敬意を持つことなのか

あるいは競技でありながら勝ちに重きを置かないことなのか

 

いやぁ面白いですね、色々な球穢れなくが出てくる出てくる

球の穢れなくが溢れて止まりません

球穢れなくとは何なのでしょうか

そう、おそらくこれは解なしなんですよ

正解が存在しない言葉

それが球穢れなくなんです

 

道険しってのはシンプルですね、球穢れなくをXだとするならXは大変だよとか困難なことということで終わり

ただそのXの意味があやふやで何を指しているのかがこの言葉単体だけでは分からない

言葉の数学なんですよこれは

まぁ数式的には簡単だと思いますが意味を見つけるのがミソですね

じゃあどう球穢れなくを扱えばいいか

これはその時その時の時代に最も適した解釈を当てはめることが重要であり価値なんです

道険しとつけているのは「大変だろうけど大事なことだから挫けず頑張れよ」という意味合いなんですよ

人は困難だとか難易度が高いという触れ込みを視ると一部の者は「よしやってやろう」と火が付くものなんです

それを逆手に利用しているのがこういう言葉なんですね

いいフレーズだと思います

 

そして球穢れなくという言葉の解釈に戻ります

まだ意味があるんじゃないかまだ何か隠されているんじゃないか、そういう気がしてしょうがない

おそらくですが

純粋な気持ちで物事に取り組む姿勢を貫くこと

これが一番近いニュアンスだと思うんですよ

ズルをしてまで勝ちにこだわるなだとか何かの利益の為に取り組むなだったり

邪な気持ちで行動するな、幼い子供だったり仏さんのような精神を持てみたいな感じですかね

まぁ例によって正解はないです

本当にこれが意味として正しいかも思想として正しいのかは分からんです

要はただこの思想が好きなだけなんですよ

ニーチェならば奴隷道徳と一蹴するようなものだったとしても好きなんだからしょうがない

勝ちにこだわりたくないんですね

そうまでして勝ちたくない

ただ精一杯やりますよ、やりますけど結果なんてどうだっていい

純粋に楽しくやれてるという過程があるなら結果なんてさほど意味がない

 

いやぁやっぱりいいですね

この言葉に触れれば触れるほど自身の内部から毒気が消えていく

そんな気がします

ではまた