なぜだろうか
こう、癖のある書き方というか文章ほど読んでいて面白い
いや、正確には自分にしか読めない、読解できない文章が心地いい
要は自分の解釈や尺度がピタリとはまった眼鏡のレンズのようでピタリとその表現、比喩にハマるのだ
つまりそれが自分にあった文章なのだと感じる
例えばだが次のようなときにどう表現するかだが
「どこかで2000円が入っていた財布を落としてしまい、私は落胆した。」
と
「どこかで2000円入っていた財布を落とし私は同点の9回裏にノーアウトから2ベースを打たれた気分になった」
とした場合、私は後者のほうが圧倒的に面白いしシックリとくるのだ
当たり前のことを当たり前な表現で当たり前に書いた文章など一体何が面白いのだろうと思う
あまりにも温度のない、感情のない、起伏の無い、味気のないそれは一体何のために存在しているのかと私は思うのだ
其れがいわゆる「個性殺し」であったりするのやしれないがそんなことをして一体何になるのかと思う
なぜ場所によって方言や訛りや崩しがあるのかと言えばそれが「自然体」であり人の温度から出ている形の変化だからだ
だがまぁそれを抜きにしてもだ
整った文章は好きじゃない
なんとなくだが文章とはもっとこう、自由でなくてはならない
躍動すべきなのだ、跳ねるべきなのだ、尖り散らしていいのだ
むしろそのほうが意味が分かりやすい場合も多々あるからだ
逆に平坦な文章程意味が伝わってこないとはなぜ思わないのか?
例えば100人を殺したとするシリアルキラーがいたとしてそれを一体どう表現するのだ?
「100人殺しの容疑者」という表現で意味が伝わってくるだろうか?
悪いが自分には微塵にも何も伝わってはこない
意味が分かるように書かなければそれは言葉として、あるいは文章としての役割を果たせていないのでは無いだろうか?
そしてそれを日々に無意識に使っているのだとしたら
それは「整った文章は頭が悪く見える」と言うのは誇大な表現では無いように思う
「どえりゃあブチヤバイ殺人鬼」と書かれた方がまだウッと個人的にくる
体裁など何の意味も無い
「こうであらねばならない」ことなどこの世には1つもない
決まり事などクソくらえなのだ
自分で決めたこと以外にこの世に意味も価値もあるものなどない
だから眠たい文章はやめよう
突き抜けたほうがずっといい
平均的な何かを目指すのはよせ
いつだってアウトコースを待って打て
アウトコース低めだけを待って強く打て
そうすれば球は飛んでいく、どこまでも、どこまでも
そしてその打球が自分を勝利へと連れて行ってくれる
やがてそれは10本のホームランになりご褒美選手が貰えるのかもしれない
「オレモダイスケ スケートボーダー」 だろ?
なぁ、神田大介
なんでお前はナックルを投げられるんだい?
ちょっと珍しいじゃあないか
苦労したぞ、お前を出すのに
横浜のローズがお前を出させてくれた
俺はaiwaのビデオ部分はすぐに壊れた14インチのテレビデオにさ、三色ケーブルを64にとりつけて
学校から帰って制服のままホームラン競争をやってたんだよ
何度も何度も挑戦してな、やっとクリアできた時は嬉しかったさ
その気持ちは20年経った今も少しも変っちゃいないぞ
俺はいつだってホームランキングだ
誰よりもどこまでも遠くに打球を飛ばしてやる