段々と見えてきた
真理とそのまた奥の真実まで
球穢れなくという言葉の深み
悟りとも解脱とも違う新たな境地がある
ずっと俺は考えていた
末人思想や超人について7年以上ニーチェと向き合ってきた
そして俺は超人になれそうもないからと完全理解を諦め放置していた
「人は考えるだけでは物事の本質を理解できない」
という言葉に総てを集約させてもらう、それが理解まで7年かかった理由のほとんどだ
経験のない理解など所詮薄っぺらいのだ
地上から雲を想像しているだけに過ぎなく、雲を完全に理解するには雲の位置まで自分を高めなければ理解なんて無理なのだ
そして自分は今その雲に近づきつつある
自分の理想と現実とは概ね一致しないものである
そして思い描く理想の中でどうしても譲れないものがあったりもする
そこで一歩も引かずに理想を追い続ける
追い方にも色々あるが手段を選ばずとにかく目的を達しようとする方法や
正々堂々というあまりにも手段と目的を履き違えた自分に酔っているようなものもある
では「球穢れなく」とは何か
卑怯なことをせず真正面から挑むことが穢れなくなのか
あらゆる方法を使ってでも目的を達しようとするのが穢れなくなのか
俺は前者でも、後者でもないと思っている
球穢れなくとは「無策」にある
意識の外側での勝負だと思う
勝つための最善でも最短でもなく
勝負のための美学でも美意識でもない
「穢れなく」とは自分の自我を放り投げた外のことである
自分を自分でコントロールするのではなく自分の無意識に自分を委ねることにある
それこそが真の「穢れなく」である
究極の思考とは無思考から繰り出されるのである
究極の選択とは真っ白な紙から書かれるものなのだ
頭を空っぽにするのである
すると何かが浮かび上がるのだ
自分以外の考えた「何か」が脳裏から浮かび上がってくる
そこで取る選択や行動こそが真の境地である
人間の意識を持っていて悟りや解脱など不可能である
これこそが真実だ
つまり人間の「意識」を捨てることにこそ悟りや解脱をさらに超えた境地へと人は除き入ることができるのだ
神の領域と言ってもいいかもしれない
意識を投げ捨てることにより人は未知の世界へと踏み入ることが可能となる
そこで知る選択こそが「穢れなき」選択なのである