人間の進化とその岐路

あなたはどれだけ自分という人間を理解できているだろうか

おそらくは欠片も自己分析さえできてはいないだろう

 

自分も10代や20代前半くらいの時はそうであった。

自分という人間が見え出したのはここ2,3年の話である

 

自分が何を求めどういう人間で何が幸せなのか

それが分からなければ自分の道は見えてこない

誰かに示された他人の道を自分という人生を消費して歩いていくことになる

つまりあなたがどんな人間であろうとあなたは誰かの言いなりなのである

選択権もなにも奪われたまま、そして思考力判断力も持ち合わせていない不自由な生き物

 

それが大半の人間の生き方だろう

そしてそこに、正解はない

何が答えで何が真実かは自分自身に隠されている

そしてそれはなかなか探しても見えてはこない

根気よくじっくりと見なければ自分は見えてこない

決して他人の評価に踊らされない人間

自分の中の価値観でのみ自分を判断することのできる意志とセンス

これが何よりも重要なのだ

「客観的評価でなく重要なのは自身の客観性だ」

なぜなら客観的評価などその場の環境や時代によって簡単に変わってしまうからだ

例えば5歳児を100人集めた空間と30代を100人集めた空間での客観的評価は全く別物のそれとなるからだ

だから重要なのは客観性である

自分が誰に対して評価されようとしているのか

それだけを考えることに没頭する

如何にブレずにそれを全うできるかが分かれ道

自分を自分で評価するための行動でもいい

自分が好きなものを全うする

自分で自分を認めて上げ

自分が自分の最大のファンとなる

他の誰にも理解されなくとも自分だけは自分を理解してやる

自分がカッコいいというものを選び自分が正しいと思うものを選ぶ

ただそれだけのシンプルな生き方だ

誰かの評価など最初から必要なかったのだ

自分が自分を心の底から認めることができるまで頑張ることができたのならある程度の結果は出ているはずだ

そのセンスが正しければ

 

今人間は進化の岐路にいる

何が正解で何が正義で何をすればいいのか最初に言った通り大半は理解できていなければその自身を導くセンスも持ち合わせていない

自分を信じることができる人間は持って生まれた能力の有無で決まる

センスのない人間は自分を信じても異常者のまま終わるだけ

ただそういう人間にもまだわずかに可能性として残されているものがある

それは「第三者からの影響」である

彼らはセンスがない

例えば板と木炭があったとしても鉛筆を作り上げることができない

ただしセンスのある人間が鉛筆の構造を思い浮かびそれを作り、それを伝えればセンスのない人間にも鉛筆というものを作ることができるようになる

すべてはセンスである

正しく便利なものを伝えるセンスマンからそれが正しくて便利だとわかるセンスのあるセンスのない者が影響を受けそこからさらにといった具合になったとき人間という名の不完全な猿は一段レベルが上がることができる

我々の能力も思想も決して同一ではないが伝えあうことはできる

何が正しいかそれを広めることができるセンスのある者

それこそが宗教などの本によく出てくる救世主と呼ばれる存在だろう

ひたすら自分を信じぬくことができる存在

 

2016年、今や古い価値観から新しい価値観への転換期となっている時代

いつどこで誰がその救世主として現れ考えを広めていくか

それは決して茶番のような扇動では生まれないはずだ

より完璧でより澄んだより猛毒的な価値観の普及はもう目の前であり

今はその岐路となっているのである

昔の価値観とこれからの価値観の台頭が始まりどちらともしばらくは存在し

やがてどちらかは小さくなっていく

そんな時代がこれから始まろうとしているはずだ