僕自身がそもそも自分の言っていることを完全には掌握できてない
理解できているのは良くて4割程度で後はただの推測なのだ
3、4割ほどジグソーパズルを埋めてこれは何の絵だと何を現してると言っているだけに過ぎない
それで十分と見るか、まだ不完全とみるか
よくクイズ番組などで8割ほど絵を隠して解答者が正解を見事に当てているが
それと比べるのはそもそも正しいかさえ実のところはよく分かってない
こんなどんぶり勘定はやはりよくないのだとは思う。
昨日に語った人間の出処が「実態のない嘘」だとして
出口は「土」なのかあるいは違う何かなのか
そして目的とは一体何かと考える
ひとまず自分ではなく自分以外でそれらを見てみることにしよう
昨年母方の祖父の葬式に出席した
祖父との思い出はどうでもよいものばかり、以前にその祖父の兄の葬儀の際祖父が焼却され骨のみとなった祖父の兄の一部分の骨を指差し僕に言ったのは「おい、分かるか。これが膝の皿の部分や」と当時小学生であった自分に語った思い出が祖父の葬儀の際にふと思い出し遺骨を入れる壺を選ぶ際に係の人に僕は「膝の皿を入れて貰えますか?」と言った。
特に意味など無かったが自分の中で祖父との思い出を僕自身の中で消化したかったのだ。
そして祖父は人としての出口へと行ってしまった。
この世からの退出、退席、退場であった
祖父の人生の目的とはなんであったのか
大工として働き娘を3人育て孫は自分を含め6人ほど?か
決して人徳のある人物とは言えず真面目とは程遠い変わり者で友達もいなかった
彼の目的を察しようとしても自分ではなかなか難しい
特に考えもせず流れでそうなったに過ぎないのではないかという風にしか思えない
そもそもに社会とはそういうものではないか?
日々の労働のあと冷静に物事を考え生きていたらブルーカラーなどとても素面では生きていけない
そういう境遇で冷静に生きるという可能性をまずは排除され「思考の去勢」とも取れる巨大な世の仕組みと流れに人一人で立ち向かうことなど果たしてまともなことだと言えるだろうか?
答えは否である
祖父もまた流れに飲み込まれた者の一人で自分の母親を作り出した出処と言える場所はもはやフィクションですらなく「情勢」あるいは「ルール」か「常識」
おそらく時代によって次代に対する価値観は違う
祖父にとって次代とは「物」程度の認識だったのではないかと思う
親にとって子とは物であり道具
あるいは奴隷、使用人、自分より身分の低い者
そういう見方があっても別段不思議なことではない
子は財産だの大切にという風潮がそもそも珍しいものなのではないだろうか
昨今の少子化も結局は子供に対する見方から来るものではないか
面倒、負担、負債、博打という認識が次代を持つということに対して持たれているのではないか
あるいは自分の自信の無さから、世に対する絶望から
ここに人生の目的という漠然としたものが置かれている
祖父の人生の目的、祖父のやってきたことは全て祖父の価値観と感情によって行われてきた。
例えば車をもつこと家をもつこと子供を持つことも全て祖父の価値観と感情から選択された。
祖父にとってそれは「魅力的なもの」だったことは間違いない
そもそもに人間がわざわざ欲しくもない物を、商品を身銭を切ってまで手に入れようとするだろうか?
つまり子供を持たない人というのは子供を「魅力的なもの」だという見方ができない価値観を持った人だということ
これは家も車も同上である。
誰も欲しくないゲームソフトを買いはしない
少子化とは価値観の多様化からなるものだった
つまり、人生の目的とはその人による「価値観の追及」であることが分かる
我々の出処は嘘という工場から作られる商品で
人生とはその人にとって魅力的なものを追いかけ続けるループ
そして出口はこの世からの退場
この三段を持って人は終わる。終わるというのはそれが人という一コマ一コマに映るフィルムの終わりである
こういうイメージを持つといい
小さいミニチュアの我々がいつかやがてその舞台から退場する
例外なく誰もがいなくなる
着飾った者も冴えない者
周りと比較して賢い者も簡単な計算も間違うような者もいずれ全ていなくなる
ただ自分にとって魅力的な物を追いかけ続けながら消えていく
消えろ消えろ短い蝋燭、人生は歩き回る影の哀れな役者
何かを見るべきだ
男なら自分がカッコいいと心から思える映画でもいい
そして自己投影するべきだ。だって我々は役者なのだから
役者が演じずに生きていても仕方がない
偽れ、演じろ
我々は嘘から生まれ嘘で生き嘘の舞台から消えていく
僕は正直者という嘘を被って生きるさ
結局全部、全部嘘だらけさ
常に言う。悲観するな
悲観することなんてこの世に何もない
全てを楽しめ自分の価値観に合うものも合わないものも
僕はもっともっと人生を楽しめる
もっともっと上手くなれるし高められる
知識だってつくだろう
そしてそれらすべてがどうでもいいことも知っている
それが重要だ
そんなのは全部茶番なのだ
クソくだらなくどうでもいい廃棄物
僕にとって人生でやりたいことなど本当は何一つない
僕の価値観はそう訴えている
でもそれを人生は許さない
正確には社会がそれを許さない
人が社会で生きる存在な以上そうなってしまう
それが嫌でも逆手にとって利用して生きる他ないのだ
社会というくだらないものに我々が支配され生きている以上仕方ない
人生というものは社会という地獄と関わって生きなければならない舞台なのだから
そしてそれは自身が退場するその日までそれは続く