と聞いてシュバッてきた奴らが「あれはね〜人間と使徒の〜」と悦に浸り説明してる様がこの上なく気持ち悪く映るのを当人達だけが恍惚な表情と声のトーンを抑えもせずに下品にベラベラベラベラと口から言葉というクソを垂れ流し自身を公衆便所という生命体と化してまで言葉の排泄を辞めようとも止めようともできない現象を僕は
「クソダンス」と呼んでいる
踊りながらクソをしている、クソをしながら踊っている
だからクソダンス
要は、つまり、詰まるところ、所謂、結局、
「なぜこいつはクソをしながら踊るのだろう?」という疑問に行き着く
気持ちがいいのだろうか?と思いながらクソダンスを振る舞うクソを見させられる構図はただのスカトロショー
その作品の意味を知りたいんじゃなく
「なぜお前はこんなクソを好きなの?」と若干遠回しに聞いているのに作品の解説をし出す奴らは「創○学会って何ですか?」と信者に聞いたら組織の理念とか教えとか教祖の素晴らしさを語り始めるくらい感覚がズレていることを当人達だけが理解も認知もしていないという現実のジレンマ
「なんでこんなしょうもないもんが好きなの?」と聞いているのに内容を語るのは如何に遠回りでありナンセンスであり無意味でありクソの垂れ流しかを理解できていない
つまり「エバンゲリオンはゴミですが私はゴミなので共感性を感じてゴミが好きなんです」以外の解答以外全部間違っている
そうしたら会話が次に進むのに
「あーそうなんですね」
「そうなんですよ」
「もっと他の良いものも好きになれたらいいですね」
「そうですね」
これで話は美しいまでに無駄なく終わるのに
ダラダラダラダラと無駄な講釈を始め良いオチもなくつまらないまま解説が終わりクソの脱糞舞踊時間が終わっただけの終わってる展開を避けることができたのに
なぜクソは下らないクソダンスを始めてしまうのか?
それはクソがクソだからである
レベルが人間に至っていないクソだからクソダンスをするのだ
人間はクソダンスをしない
シンプルにクソをクソと認識しクソだからクソと理解できている
人間のレベルが最上位までいくと一切のクソに触れない
私はまだその域に達せてはいないが
「この世は全てクソ」とだけ語り何のこだわりも好きもなく1人ポツンと生きることにある
それが何よりも素晴らしい
「何もしない」を体現したかのような生活だ
これぞ孤高の日々
それが素晴らしい
無こそが全
全こそが無
人生って何ですか?