この世は全部無意味
だが無意味であることを前提として無意味ではない
そしてそれは人によって違う
例えば「この世は全部無意味だから」という人物がいたとしよう
そうした時「じゃあ生きることも無意味なら今すぐ死んでみてよ」と伝えてあげるとそいつは死なないだろう
それで稀に死ぬ奴がいたとしてもそれは死にたかった奴でしかない
つまり今すぐ死ぬことに意味があった奴となりそいつにとって死ぬことに意味ができてしまっているのだ
なのでどちらにせよ生きるにしろ死ぬにしろそいつの中で無意味なはずが無意味でなくなってしまっている
つまりこれはどういうことか、なぜこんなことになるのか
意思のある存在は必ず意味を作ることができてしまうからだ
あるいは意思なんて無くとも意味を作れてしまう
例えばなぜ紙に火を当てると紙は燃えてしまうのか
手で触ったって燃えないし熱したフライパンを当てても燃えない
が、火を一瞬でも当てるとたちまち燃え上がってしまう
それはそういう現象だからだ
物を落とせば必ず下に向かって物は落ちる
これも引力という力が働いて落ちるようになっている
これらはそれぞれが意思などなくてもそれが起こるべくして起こるように意味付けされているからである
雑に言えばそうプログラムされている
1,3,5,7,9…と延々と2ずつ数を増やしていく進数のように決まった通りにそう動く
そういう意味を持ってそれは存在しているのだ
そして人間にとっての意味とは個々人が意味付けする
寝ることから全てがバラバラに別の意味を持っている
だが他人の意味は他人にとっては無意味なのだ
意味を共有することはできなくはないがまた違ってくる
冒頭の「この世は全部無意味」とは全てを俯瞰的に見ればそうなる
自分が「この世:から存在していないと仮定した上での言葉としては当たっている
が、この世にまだ実存しているのであればその言葉は違うのである
つまりこの世とは自分が死んだ後は何も意味を持たない場所なのである
この世は遠い場所の一度立ち寄って利用したトイレと同じくらいの場所でしかない
今ここで自分が実存しているなら自分がしたいと思ったこと
やりたいことがそのまま意味になってくる
よく子供の頃ゲームをしていたら親から「そんなことは無意味だ」と言ってくる親がいた
しかしそれは親にとっての「無意味」でしかなくやっている当人にとっては意味のあることなのだ
それはお金にならないだとか将来何の役にも立たないといった理由がズラズラと並べられていたが
そもそもにこの世に意味を作るのは自分以外にいないのだから外野が決めることではないのだ
1,3,5,9…というプラグラムに向かってそれは意味が無いから役に立つ電卓になれと言ってるようなものだし
火に向かってそれは火事になって危ないから燃やすなと言ってるのと同じで
包丁に手が切れたらどうするんだ!と怒鳴り何も切れないようになれ!と言っているのと同じなのだ
そしてそれらを無理やり変えたらどうなるだろうか
ただの何の意味もない存在しているだけのゴミになるだけではないだろうか?
何も燃やせない火は存在を失くし切れない包丁はただの置物
電卓になれと言われたプログラムはガワだけ電卓となり1.3.5.9…と表示されるだけ
つまり意味とは自分が作るものであって周りが作ることじゃないということ
生きたいと思うから我々は生きてるし飯を食いたいから飯を食って寝たいと思うから寝ているのだ
そしてそれでいい
それが意味なのだ
俯瞰すれば無意味だが当人にとっちゃそれが意味ある行いだ
だから何をやってもいいどうしたっていい
咎められることは何もない
自分がしたいことだけを忠実にやればそれでいい
それが意味なのだ
それ以上も以下も無い