己の創作力の低さ

何もできん

マジで何もできない

時間が無いとか体力が無いとか気力が湧かないとかそんなチャチな理由じゃない

 

全身全霊で健康状態でも何もできんのだ

己の無能さ故何もできない

何をどうしたら作りたいものを形にできるかが分からない

やれあの作家はどうだレベルが低いだのと散々まくし立てていたがこうまで自分自身が無能だったとは思わなかった

個人でも簡単に作れるようなものが俺には到底作れない

作りたくない物を作れないことは別にいい

作りたい物が作れないことが最大限に悔しい絶望なのだ

そしてそれは俺のせいだ

頭が回っても回っても回り足りないタスクのしょぼさ

一向に見えてこない完成図、青写真

なんだ?

こんな戯言のゴミブログを書き連ねるのはこんなにも脳ミソを使わずともできるのに

なぜ俺は何も作れんのよ

しかもただの要約しただけの感想文をなぜ作れんのよ

何度も何度もプロットを書き直して

忘れた個所を見返して再度構築して

画面に何を出すか考えてもどうすりゃいいのか上手く浮かばない

まるでセンスがない

まるで実力が皆無

本当に気が狂いそうになる

他人の動画を参考に見ても「こんな程度か」と思うようなレベルの代物さえ俺には満足に作れない

己の実力の無さをまざまざと思い知った

だけどいつかは作りたいと思う

それがいつになるかは分からん

ただ本当に俺には才能がない

もう少しくらいあると思ってたが全くないね

地道に地道に時間をかけてゆっくり登っていくしかない

カメよりも遅い芋虫以下の速度しかでず出来ることもほとんどない

もう幾度とも何をするべきか目指すべきか考え続けるしかない

瞑想に耽る +後日談追記

最近瞑想に嵌っている

仰向けになって延髄を刺激し首の感覚が痺れてきて目にタオルを被せ暗闇の中を夢遊する

気分がどんどんハイになりいつまでもこのままでいたい感覚に陥る

何もいらず何も用いず己のみで全てが完結するこの状態がとても素晴らしく肉体と精神から疲労感が抜け出ていく

それがとても楽しいのだ

優しい自問自答が続き感覚が敏感になり呼吸さえも楽になり楽しくなり僅かな身体の動きが心地良い

その極楽体験にわざわざ温泉やサウナはいらないし大麻なんかもいらないのだ

身体から重力の負荷が抜ける感覚

それを不快に思う人などいない

 

上手くいく時もあるしそうじゃない時もある

だけどそれでいいのだ

毎回毎回同じ感覚などある訳がない

それも含めた上での瞑想という作業だと私は思う

 

<後日談>

思想は大本はほぼほぼ学び終えたしライフワークとしての瞑想も取り入れて大方満足している

だがその上で自分がどう生きるかを具体的に書いていこうと思う

いくつかのプロセスに分けて書くと

 

・金

・家族形成

・居住場所

・食

・趣味

・労働

・将来と老後

・末路

 

金:あってもなくても大して変わらない。借金さえしなければどうでもいい

家族形成:他人を信用するなという韓非に倣い家族も友人も作らない

居住場所:なるべく1人で生きるのに利便性のいい場所が好ましい

食:なるべく食うな

趣味:疲れないものがいい。することが無かったり気力が無い時は全て瞑想と休憩にあてる

労働:必要最低限だけやる

将来と老後:人生で最も恐れなければならないことは「偽り」を生きること。自分が自分に不誠実な生き方をしてはならない

末路:満足だろうと不満足だろうと最後は死ぬだけ、それが人生

 

まだ何かやり足りない、書き足りない気がするのは自分の気のせいなのだろうか

何かまだ大きな見落としがあるような気がするが今の段階ではまだハッキリとは分からない

人が人として何が理想で何が満足で何を求めているか

それが人であるはずの自分がまだ分かっていない

自分が自分を理解できない、理解を遥か彼方先に置いてきぼりにしている

自分でさえ自分を理解してやれない

この怪物を手懐けることが上手くいかないのだ

まるで子供に手を焼く大人の様に

 

人は我侭に生きなきゃいけない

人は思うがままに生きなきゃいけない

人は理想を噛み砕いて旨そうに咀嚼し飲み込まなければならない

人とは何なのだ

韓非は言った。

人とは利で動き、信用ならず正しいことを聞けない生き物だと

ならば正しいことしか言わない考えない俺とは人ではないじゃないか

俺は人間じゃないのだ

そして自分の2つの精神

1つはこうすればいいああすればいいと合理的な案や妥協案を思索し提案する精神

1つはそれを実行に移して違うと感じた時我侭に振る舞う精神

 

人とは違う生き物のバイブルがこの世には無さ過ぎる

人についてのマニュアルや取扱説明書は十分に理解した

俺という生物のマニュアルは一体どこに存在するのか

それが分からない

正しいことが真っ当に通ることのない社会、それが人間社会だ

だから不満が溜まるのだ、人間じゃない奴らにとってはこの上なく苦痛

嘘と虚飾で塗り固めた非合理的な環境が人間じゃない奴らにとって噛み合う訳がない

何もかもが理不尽で理の無い道理なき世の中にウンザリしない訳が無いのだ

結局そんな世の中や社会である以上人間じゃない俺にとってはどう足掻いても絶望しかないだろう

これこそ猿の惑星に他ならずリアルウォーキングデッドだと言ってもいい

そんな社会で主人公達は幸せに生きられるか?

答えは否だ

彼らは絶望の中を自身の気力で生き

最期は絶望に飲まれて死んでいくのだ

俺がこのゾンビワールドの主人公だ

運命はもう決まっている

それをもう過程はどうあれ受け入れるしか無いのだろう

ではまた

韓非の人間不信とニーチェの超人と釈迦の解脱

つまりこれらをミキシングするとどういったことになるか

 

1人暮らしで狭い部屋に住みビーガン生活を送り「何か」をする

 

「何か」とは一体何か

それが分からない

 

 

正直金は必要ないんだと思う

いや必要なんだけど必要な分以外は必要ないということだ

あり過ぎても何の意味もない

金とは金以上でも金以下でもない、ただの金でしかない

 

そして韓非曰く「他人は信じる意味がなく馬鹿は正論を聞かない」のだから他人とは関わる価値がないケースがほとんどということ

人類史上最大の合理的人間がそう言ってるのだからそれはもうほぼ確定と言って問題無いだろう

 

ニーチェは娯楽について説き

釈迦は生活と思考について説き

韓非は人間関係について説いた

と僕は個人的に思っている

 

超人とは遊びだ

遊ぶ人という意味だと僕は思っている

何の障害もなくやりたいことをやりたいままに体現でき表現できている人間を指すのだと僕は思う

勿論その規模の大小は当然ある

大きいことを為す者もいれば小さいことしかできない者もいる

そこで物事の大きさで悩む人間も当然いるだろう

しかし老子は「小さくていい、無理するな、無為自然」と返す

 

事を大きくするには人手が必要になる場合がほとんどだ

しかし韓非は「アホはどうしようもない、アホじゃ無くても人なんて信用するな」と言う

老荘も「国は小さい方がいい、民は少ない方がいい」と説く

ならもうこれは究極人は1人でいいとなる

 

じゃあ1人で何をするかとなるとニーチェの超人になる

やりたいことをやりたいまま

じゃあ何をやるのか

そこに釈迦のビーガン思想を当てはめる、自分のできる範囲で

するとどうなるのか

 

例えば1人で何かしろと言われたら僕は何をするのか

 

結局はゲームなんだと思う

じゃあそのゲームで何をするのか

僕はゲームで何を体現するのか

答えはもう分かってんだと思う

多分観戦だなって

多分それなんだなって分かってんだけど

なんでやらなかったんだろうなと不思議に思う

なんかめんどくさいんだろうな

それが良くない、本当に良くない

この考えをなるべく早くアップデートして変えていきたいと思う

ではまた

利久、丿貫、四規七則をザッピング

なるほどな

僕はそう思った

ので今こうして筆をとる

 

禅だなんだって文化として言ってるのか人として心からそうであると感じて言ってるのか

それとも単なる思い付きの虚構か

その真意は僕には分からんけど

影響力や成功は常に死と隣り合わせだって言うのはいつの時代でもそうなのだなと改めて分かったのである

 

成功は失敗であり、失敗は成功である

 

また、頭の中でマクベスが僕にそう呟いた

汚いは綺麗、綺麗は汚い

 

最強は最弱、最弱は最強

 

つまりそれを僕の人生に当てはめるとするならこうなる

孤独でいろ

金持ちになるな

偉くなるな

 

とりあえずはこれを僕は徹底しようと思う

そして茶道の観点から僕自身のファッション道を考察したいと思う

四規七則の四規とは「和」「敬」「清」「寂」

中和しなさい、和らげなさい

敬いなさい

清めておきなさい

静かでいなさい

 

中和なファッションとはドレスっぽさとカジュアルのバランス

敬うは態度やたたずまい

清めておきなさいは清潔さを保ち

静かとは目立たないこと

 

これは考えれば考えるほど難しい

やり過ぎればただの地味野郎

行き過ぎれば四規から外れてしまう

正解が存在しないのかと思わせるほど

僕の直感では解なしが浮かぶ計算問題だ

ただあくまで僕の中で、僕の才能や能力の枠内では答えが出ないだけで出せる人だって当たり前にいるかもしれないし気はする

 

多分僕に正解の人生や選択なんて選べない

むしろ正解なんていらないんじゃないかとさえ思う

四規七則の原理原則だって本当にそれがアジャストすることが正解かなんて分かったもんじゃない

そもそも僕はまだ成長段階か器ではない可能性もある

何が正解かなんてわからない、何も正解じゃないのかもしれないのだから

 

「お前答えが視えるか?」と問われたら僕は視えないと答える

何が正解か自分ではわからない

光らず光る

塵にならず塵になる

深すぎて難解過ぎて感覚や感度がキツク感じ始めてくる

トレンドは決してお前を救ってはくれない

無難は決してお前を満足させない

完璧は決してお前には欠けていて

究極はきっと自然に訪れる

 

力を抜け、脱力だ

何も考えるな

目を瞑って振って当たったらホームランだ

余計な力が全て抜け無駄なく振り切れるかどうかがこの世の全てだ

無意識と自然体

そして成功しないこと

それが本当の自由だ

ではまた

これからのイタイおっさんとして必要なこと

20代を終えた僕はこれから究極完全体のおっさんへと変化していく

25過ぎたらおっさんだと当時から思っていたがもうそんな比ではないおっさんへ僕もなっていくのだ

 

25を過ぎるまではいつまでも僕は若いままでいると本気で思っていたものだ

だが、そうじゃない。少しずつ現実を知っていった

 

おっさんとはイタイ生き物である

何をしてもどうやってもおっさんとは痛々しいのだ

僕はそんなおっさんとしてどう立ち振る舞いどう生きていくのか

それを今から挙げていきたいと思う

 

・出家おっさん

女や世間の流行と全く縁のない生活を送るおっさん

 

・ゲームおっさん

休日はゲームをやるおっさん

 

・ぼっちおっさん

孤独なおっさん、誰とも関わらない

 

・ぼっちおっさん改

孤独要素に加えて基本的に他人が嫌い、内心で人間をゴミだと思っている

しかしマナーは良く挨拶も普通にする

他人から不快なことをされると一気に口が悪くなる

人としての器が滅茶苦茶小さいおっさん

 

・悟りおっさん

ニーチェや釈迦の思想に傾倒しているおっさん

色即是空を信条としこの世は全部無意味だと確信している

なおやりたいことは未だ見つからず模索し続けている為本人は末人のまま

ただし人生に絶望している訳ではない

 

・悟りおっさん改

この世は全て無意味であると認識していながら人生を楽しみ謳歌しているおっさん

周りからすれば迷惑度は結構高めだが本人は幸せそうなので不快度は高い

おっさんは苦しんでるくらいがちょうどいい気がする

社会的サンドバッグの分際が幸せに生きてんじゃねえよという視線をビシバシ浴びているが本人はお構いなし

この先にもまだ進化系が存在するようだ

 

・悟りおっさん改2

世間から目立たなぬように生きつつ自身の生を楽しんでいるおっさん

目立たない為誰にも発見されないままのケースが多い幻のおっさん

外敵に狙われにくい為おっさん界最強との呼び声が高い

 

 

これ以外にもまだまだおっさんは存在する

組み合わせは無限大

君だけのおっさんを作れ

 

おっさんとは無価値

そして人生は無価値

つまりおっさん=人生の等式が成り立つのである

ようやく僕は長い年月をかけて人生そのものになることができたのだ

僕は人生を楽しみたい

ではまた

「無」とは何かを解説

つい先日「無」を理解したので今回はそれについての自分なりの解説をしようと思う

そんなに内容は難しい話ではない、至ってシンプルな話だと思います

 

「無」とは日常に溢れているものです

友達がいないという無

金が無いという無

恋人がいないという無

趣味が無いという無

家族がいないという無

 

このように無とはどこにでもある当たり前な存在である

この世の大原則は「色即是空

この言葉の意味はこの世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空(くう)であり、不変のものではないという意。

まずはこれを受け入れ理解することが必須かと思います

 

次に先程に挙げた様々な「無」がありますが

これにネガティブなイメージを持ったり虚しいという感情を抱いたらそれは「虚無」になります

「無」と「虚無」は全く持って似て非なるものです

「無」は受け入れ気にせず生を肯定していますが

「虚無」はそれ自体に押しつぶされ生を肯定できていない

こんな違いがあります

例えばですが高級時計に興味がすごくある人と全く無い人がいた場合その高級時計を両者共持っていなかった場合

興味がある人はそれに対して深い絶望を感じますが興味が全くない人は持っていなくても全くそれを気にしないのと同じです

2人とも同じ「無」なのに全く違う結果が引き起こる訳です

厳密に言えば若干違うけど簡単に例を出すとこんな感じです

要は無を肯定できれば「無」であり無を肯定できず否定的なら「虚無」になる

 

つまり

「ああ、別に俺友達とか家族とかいらねえから」と強がりでなく本心から思っている人間は無を肯定し生を肯定できているが

「俺は友達も家族もいない、生きているのが虚しい」と思っている人は虚無に押しつぶされ生を肯定できず否定感情に苦しめられる

 

でもそんなの簡単じゃないでしょと思う方は正解です

簡単なことでもないし生半可なやり方では無を肯定できないことも多いです

まず友人や家族を持たない「無」を肯定するには徹底的な「他的存在」つまり「他者」を全否定する気持ちが無ければ難しいです

つまり自分以外の存在はほぼ全ての人間を「猿以下」と思えなければ「友人や家族を持たない」という価値観を肯定しづらいです

他にもやり方はあるかもしれませんが自分の場合は徹底して他者批判を繰り返しました

そして他人に全く期待感を持たなくなりました

そうすることで孤独であることを肯定でき無を肯定し生を肯定できるようになったのです

あ、これがベストじゃん、無っていいなと心から思えるようになりました

 

じゃあ究極は自分のできないこと持てないことを全て否定してありのままの動物みたいな自分を肯定し生も肯定することなのかと問われたら

おそらくはそうなんだと思います、そういう存在に各々がなりたいかと言ったらまた別の話だとは思いますが要はこの発想や思想って人間の「自然回帰や動物回帰」なんですよ

人間として人間が生きることが息苦しいし大変だしちっとも良くないじゃないかと思ったり感じた人への逃げ道のようなもの

もちろん全く大変じゃないし所有することが幸せだと思う人はそのままでいいと思うんですよね

ただ全員がそうじゃないっていうだけの話で

 

他にも金の「無」だと金なんて生きていけるだけあればそれで十分じゃん

稼ごうと思ってもコロナだなんだで先のことなんて全く不透明で自分の力じゃどうしようもねえんだから考えるだけ全くの無駄じゃん

とすることで自己責任の枠から追い出したりすることで現在の状態や金の無を肯定したり

要は「自分は最善を尽くせてる、これ以上はどうしようもないっしょ」と肯定

要は様々な自己肯定法を用いて己の「無」を「虚無」にしないことで自己の生を肯定することは有益だよって話なんですよね

実際どうしようもないことは多いでしょ?

災害だったり疫病だったり自身が病気にかかったりと人生は予定調和的には進まないことが多々あるんだからそこに「自己責任」を感じることって不毛じゃないですか

少なくとも僕はそう思いますね

自分を助けられるのは自分だけ

他人は決して自分を助けることなんてできない

ではまた

解けた洗脳、転換した新たな価値観

ずっと誰かの為に生きてきたり自分のやりたいことが分からない時期がずっと長かった

 

子供の頃から私は抑圧されて今日まで生きてきた

実家は金が無いから贅沢をしてはいけない身だと思い込んできたしそれが処世術でそれが自らであり正しい行いなのだと思って生きてきた

 

けどそれは完全な間違いだったと今日気づく

 

何十年も欲しい物なんてなかった、やりたいことはゲームだけ

意欲が完全に消し飛び、意志なんて砕け果てていた

もっとやりたい放題やっていいんだと思うようになった

 

人間は猿しかいない

この前提は決して覆ることは無い

 

それを理解することが何より重要なのだと思う

他人に期待して生きることほど不毛なことは無い

基本的に他人とはどうしようもない無能だと言い切ってなんら問題ない

実際無能なのだから

自分を幸せにできるのは結局自分だけ

 

こんなことが本当に分からなかった

俺は幸せというものを感じない生き物だと思い込んでいた

今になって思う

自分は奪われ続けてきた存在だったのだ

 

美味いものを食っても幸福に感じず

金を稼いでも虚しいだけ

毎日毎日をなぜこんなに働いているのかもずっとずっと分からないまま生きていた

今、思う

それは間違いだった

 

金はバンバン好きに使ったらいい

仕事はそんなにしなくていい

誰とも仲良くしなくていい

言いたいことは言ったらいい

 

今俺は幸せです

金は人を幸せにしない

仕事は人を幸せにしない

他人は人を幸せにしない

何も言わないのは人を幸せにしない

 

ずーっと虚しいと思いながら生きてきた

もう一生このまま虚しい思いを抱えながら死ぬのだろうと諦めていた

すると虚しさを通り過ぎたところに「無」があった

無であることは幸福だと思った

 

無とは無敵だ

敵も味方も存在しない

ただただ無なのだ

だがそうじゃない

自分だけがそこにいるのだ

無の中に自分という存在だけがそこにいる

自分軸に自分だけが存在しフワフワフワフワと空中を漂っている

劣等感や焦燥感も何もない

ああしなければこうしなければなんて義務感も無い

何もかも全部どうでもいい場所に自分だけがいる

自由だ

しがらみも何もない

誰も俺を必要としないし俺も誰も必要としない

この契約が最高に素晴らしい

俺は俺だけを満たす為に動けばいいのだからこれ以上に合理的なことはない

俺が着たい物を着て食べたい物を食べて寝たい時に寝て動きたい時に動く

究極の合理的ダンス、合理的サイクル

つまりそれは世捨て人なんじゃないかと思う

「拡大するな」

だが資本主義において真逆のメッセージが凄く響いては来ないだろうか

「売上を減らせ」

こんなあり得ない言葉がとんでもなく甘美で素敵な臭いをプンプンと醸し出している

「働き過ぎるな」

 

 

「確かにな」

僕はそう思った

ベルウルフとバケットタートル達が頭に浮かび上がり彼らを絵に描いた

なんて絵だと私はそう思った

上手いだとか下手だとかそんな感想じゃない

「こいつらだ。こいつらは自由なんだ」と思った

奴らは誰にも縛られてなどいない

好き好きに好きな格好をして好きに佇んで好き勝手に喋っているではないか

なぜ2足歩行であるのに腕を出さずバランスが不安定でいるのか

なぜ地面スレスレまでの長さのローブを纏っているか

それは彼らが自由だからだ

腕を出さずに立ちたいから腕を出さないのだ

長いローブを身に纏いたいから纏っているのだ

それは彼らが究極の自由主義者じゃなければしないであろうことはどうみても明らかに明白だからだ

僕の頭が生み出した彼らはこれ以上なく自由を愛しているのだ

 

なら僕も自由に生きよう、自由に生きたい、そう思った

 

「縛られるな」

なぜ火を使い熱を通してからじゃないと食ってはいけないと思っていた

なぜ何時間働いてこれくらい稼ぎこれくらい貯めこれくらい使うことが正しいと思っていた

なぜ人間関係を必ず良好化し友人を増やし輪を広げ関わりを持つことが正しいと思った

「拡大するな、増やすな、減らせ」

全部真逆だったじゃないか

本当は全部真逆

全部意味ねえ、全部無意味

色即是空じゃないか、結局

全ては「空」に還る

全ては無

 

今は虚無が違って見える

虚しいと思う奴には「無」が虚しく見えるし感じる

最高だと思う奴には「無」が完成された何かに見えて感じる

そういうことだったのか

今全てが分かったよ

初めまして、私が超人です

ではまた