合理性で物を考える

人生は無意味である

 

しかし、もしもその「この世は全て無価値」という価値観さえも作られた虚構だったとしたら?

話を変えよう

アダムスミスが国富論を唱えてから今日の人類は資本主義という嘘に塗れた宗教を信奉してる

もういい加減金がどうこうが嘘っていうのはバレてきたし

愛がどうたらというのもバレたし

家族がどうのこうのもバレ

家車に何の価値も無いこともバレた

 

消費する価値を持たない資本主義

 

と言いつつも僕は消費している

ただ使っている物が違うだけ

必要ない物を選択から排除しているだけだ

人類はこれからどうなりますかなんてクエスチョンはハッキリ言ってどうでもいいし興味もない

 

僕は何の為に食べ何の為に消費し何の為に生きているか

結局はそれは生命活動を維持する為にやっているに過ぎない

それ以上でも以下でもない

何の為に生きているかについての「意味」づけの哲学は分からないし考えない

答えなんて用意されてないからね、意味を考える意味が特にない

「何の為に生きているのか」と問われたら「分からない」と僕はハッキリ答える

実際本当に分からないからね

自分が生きたい訳でも家族の為でもない

本当に何か分からないけどただ生きてるだけ

 

そのニヒリズムな無意味の肯定がニーチェの哲学

無意味でいいじゃないか、無意味を喜べよと突き付ける

それが出来たら超人だぞっていう

 

何かに意味と価値を見出しその背後世界に囚われることを無意味だからやめろと否定し

全部無意味だけどその無意味さを肯定しろっていう訳の分からん話

全部無意味でどうしようもなく価値なんざ無いけどそれを喜べよ、肯定できなきゃ末人だぞ、クズだぞと迫られる

 

例えるなら「うわーこれ無意味じゃん、何の意味もねえ、でもいいよね」って思えるような感覚か?

だとしたらそれは一見非合理的なのに合理的であり

無意味でありながら意味を持っているという矛盾した性質を持ち合わせている

「ブサカワイイ」であったり「残念なイケメン」であったり「カッコカワイイ」「馬鹿賢い」「真面目なのに馬鹿」

みたいなものだろうか

「無能であるが故に有能」「有能であるが故に無能」

綺麗は汚い、汚いは綺麗

やはり全てはマクベスへと回帰するのか?

 

だがその通りだと思う

現在は「お金」が価値の全てな社会だが

それは所詮作られた虚構でしかない

金の実態はただの紙であり数字でしかない

何を以て価値とするかなんて所詮誰かが作った訳の分からん定義でしかないのだ

 

つまり、つまりだ

「これ何の意味も価値も無いじゃん、こんなの非合理だよ」というものが

何らかの影響で「これは意味も価値もあるものだからこれは合理的だよ」となることなんて本来十分あり得る話な訳だ

そこに理由だとか原因なんてものは存在するかもしれないししないかもしれない

意味を考える意味なんて無いのだから「そうなればそうなる」としか言えないのだ

世の中における「価値」なんてものは集団催眠で起こる現象でしかない

それは金に限らず全てがそうだ

 

さぁ無意味の岐路に僕は立たされた

僕は無価値と無意味を無価値と無意味に肯定しなければならない

そして合理的、非合理的や意味と価値なんてものは本来存在し得ない

真の意味も合理的も価値もない、全ては大いなる正午により無となる

そこで僕は無を肯定しなければならない

そして無の合理的とは何か

無とは無意味で無価値である

無意味と無価値の合理性って何だ

同じ場所の土を掘って埋める行為の合理性って何だ

それでさえ運動という合理性と意味と価値が生じてしまう

もっと他の例えで無いのか、無意味と無価値に合理性を付与できることは

所詮僕の囚われてる合理性など脳に植え付けられた資本主義における合理性でしか無いのか?

そんな背後世界、誰かが作った価値観を前提にした合理性なのか?

考えろ、僕における真の合理性とは何だ

僕は一体何をすべきなんだ

合理性とは

 

アルティミシアは全ての存在を否定した

果たしてそれは合理的と言えるだろうか

 

薄っすらと僕の合理性が浮かび上がってきた

ほんの薄っすらと

やりたいことをやって死ぬという合理性

合理的なことをやって死ぬという合理性

僕は合理的に生きる

ではまた